【第1回】放送通訳の世界「放送通訳ってナニ?」
「首回りがガチガチですね。どんなお仕事なさっているんですか?」
「声を出す仕事です。」
「じゃ、声優さんですか?」
「…いえ、…あの、実は放送通訳です。」
「わぁ、英語できるんですか~!カッコいいですねえ」
マッサージ店での施術が始まると、たいていこのような会話が交わされます。「通訳」という職業は、「英語が堪能」と周囲から見られるようですが、こと私に関する限り、語学力以上に「知識量」が大切に思います。新たに始まるこのコラムを通じて、放送通訳の世界をみなさんと共有できれば幸いです。
1.放送通訳の歴史
日本で放送通訳という仕事が本格稼働し始めたのは、1980年代以降のことでした。それまではまだ日本において海外のニュースをリアルタイムで見られる状況ではなかったのです。しかし1991年の湾岸戦争を機に、海外ニュースを通訳者が同時通訳していく方式がとられるようになり、以後、放送通訳という分野が確立されました。バブルの頃は衛星チャンネルで見られるCNNだけでなく、NHK-BSや民放各局、CATVなどでも放送通訳が付けられていましたが、近年はその数も減少しています。スマートフォンでも海外の動画が見られる時代になりましたので、業界は大きく変わりつつあるのです。
2.どういう人が放送通訳を?
湾岸戦争当時に放送通訳を行ったのは、会議通訳者でした。時代を経た今も、会議通訳業と兼業しながら放送通訳に携わる通訳者は多く見受けられます。私の場合、通訳学校で勉強をした後、エージェントに登録し、フリーランス通訳者としてアテンドやガイド通訳などもたくさん経験しました。もともとジャーナリストになりたいと子どもの頃から思っていたこともあり、縁あって今、放送通訳業をメインに稼働しています。
3.放送通訳者に必要なこと
国際会議の同時通訳も放送通訳も、基本的には「聞こえてきた内容を即座に同時通訳していくこと」が求められます。逐次通訳のようにメモをとってから訳したり、不明点があれば訳し始める前に相手へ確認したりという余裕はありません。即応力、記憶保持力、内容理解力、語学力、目的言語の語彙力など、幅広い力が求められます。しかもニュースの同時通訳の場合、どのような話題が飛び出すかわかりません。会議通訳の場合は、業務を依頼された時点で予習を始めることができます。けれども、放送通訳の場合は、突発的なニュースが急に入ってくることもあります。「インターネットのニュースサイトでは○○がトップニュースだったから、その予習をしてきた。なのにいざニュースが始まったら、△△国で起きたクーデターの話題に。△△国ってどこ?初めて聞いた」などということも起こり得るのです。このようなことから、多様な話題が出てきても、慌てず正確に訳さねばなりません。
4.勉強方法は?
国際会議の場合、エージェントやクライアントから資料を事前に頂き、当日に向けて読みこんだり単語リストを作ったりと、万全の態勢で臨むことができます。関連文献を探し、動画を視聴し、そのテーマを徹底的に頭に叩き込むのも仕事の一部です。
一方、放送通訳の場合、とにかく何が当日出てくるかわかりませんので、出発点としては「新聞を読むこと」が求められます。世界で今、何が起きているのかを把握し、政治だけでなく経済や宗教、領土問題や軍事分野など、鳥瞰図的に見る必要があります。また、なぜ昨今の世の中はこのような状況なのかを歴史的に把握することも求められます。
それだけではありません。ニュースの場合、スポーツ、経済、医学、宇宙、芸能、アートなど次々と登場します。「私は○○分野が苦手だから」と選り好みできないのが放送通訳なのです。
よって、最大効果が期待できる勉強法とは、新聞を読むことと日ごろから様々なことに好奇心を抱き、アンテナを張っていること。これに尽きます。
以上、今回は第1回ということで、放送通訳の概要をざっとお伝えしました。今後の連載では、上記で取り上げたテーマを深く掘り下げるほか、放送通訳の仕事を通じてとらえる日本と世界の話題などもお届けする予定です。また、「時間管理術」「手帳術」など、私自身が関心を抱くトピックもみなさんとシェアできればと思います。
さて、最後に問題を一つ。みなさんはpresidentと聞いたら、どう訳しますか?
「最近はトランプさんが何かと話題だもの、『presidentイコール大統領』よね」「いや、このところ企業不祥事のニュースが多いから、私が最初に思いつくのは『社長』だなあ」という具合に、president一つでも色々な訳語がありますよね。中国であれば「国家主席」ですし、キューバなら「議長」、大学なら「総長」、IOC・国際オリンピック委員会は「会長」です。放送通訳の現場では、たった一つの基本単語も状況に応じて即座に正確に訳出できなければなりません。それができるようになるためにも、放送通訳者たちは日ごろからコツコツと地道な努力を続けているのです。
次回は「放送通訳業務の流れ」についてご紹介します。
柴原 早苗(しばはらさなえ)
放送通訳者。獨協大学非常勤講師。上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。ロンドンのBBCワールド勤務を経て現在はCNNj、CBSイブニングニュースなどで放送通訳業に従事。NHK「ニュースで英会話」ウェブサイトの日本語訳・解説を担当。ESAC(イーザック)英語学習アドバイザー資格制度マスター・アドバイザー。通訳学校にて後進の指導にあたるほか、大学での英語学習アドバイザー経験も豊富。著書に「通訳の仕事 始め方・稼ぎ方」(イカロス出版、2010年:共著)、「英検分野別ターゲット英検1級英作文問題」(旺文社、2014年:共著)。