【第4回】通訳翻訳研究の世界~翻訳研究編~順送り訳と情報構造
順送り訳とは
この連載では通訳と翻訳に関する研究を紹介していますが、今回は通訳と翻訳の両方に関係する〈順送り訳〉について考えます。まず、下の英文を訳すことを考えてみましょう。
I came to Paris to escape American provincial.
文脈的要素を排除して訳すと、to escape 以下が不定詞の目的用法となり「アメリカの田舎から逃げるために、パリに来た」と訳すのが一般的です。しかしここで再考したいのは、訳す語順の問題です。英語と日本語の統語構造は鏡面関係にあるので、訳出順序が〈逆送り訳〉になるのは仕方ないと思うかもしれませんが、本当にいいのでしょうか?〈 逆送り訳〉をすると、原文(英語)の①→②の情報の流れになるのに対して、訳文(日本語)では②→①と逆転してしまいます。
①I came to Paris ②to escape American provincial.
〈逆送り訳〉
②アメリカの田舎から逃げるために、①パリに来た。
〈順送り〉
①パリに来たのは ②アメリカの田舎から逃げるためです。
これに対して、〈順送り訳〉を行うと、原文の情報の流れを維持しながら訳出できます。このように〈順送り訳〉とは、原文の節clause や句phrase の順序をできるだけ守りながら訳出すること(水野, 2017)であり、プロの英日翻訳者の世界でも「原文の思考の流れを乱さない」(安西, 1995)訳出方法として浸透しています(亀井,1994; 安西, 1995; 中村, 2001)。プロの翻訳者が経験的に語る事柄、すなわち「原文の思考の流れを乱さない〈順送り訳〉とはどのようなものなのか、それを理論化するのも翻訳学の使命の一つです。以下では、〈順送り訳〉の妥当性を「情報構造/情報の流れ」という概念から考えてみます。
情報構造とは
情報構造とは、文の中における旧情報と新情報の位置関係のことです。原則として、文には、旧情報と新情報が含まれます。旧情報とは既知の情報や一般的に知られている情報の事です。これに対して、新情報とは、その文の中の焦点となる情報や重要事項になります。こちらの情報の位置関係が、文と文のつながりにも影響してきます。次の日本語の例をみてみましょう。
むかしむかし、おじいさんがいました。
おじいさんは、山へ行きました。
情報構造をみてみると、日本語の場合は旧情報は主語の位置、もしくは述部よりも左の遠い位置に置かれ、新情報は述部の直前(のスロット)に置かれるのが原則です。この法則にもとづいて最初の文をみてみると、旧情報は述部の左の遠くにある「むかしむかし」になります。読者にとって「むかしむかし」という状況は既知情報であると想定されます。それに対して、新情報、つまりこの文の焦点は、述語(≒動詞)の直前のスロットにある「おじいさん」になります。助詞の「が」からも新情報であることが自明でしょう。すなわち、最初の文では「おじいさんがいました」が文の焦点(新情報)になるのです。
これに対して次の文では、前の文で新情報だった「おじいさん」は、述部の直前の位置から主語の位置に移動することで、既知の情報へと格下げされます。助詞「が」→「は」に変わったことからも、「おじいさん」が旧情報へと変化したことが分かるでしょう。その代わり、2番目の文では「山へ行きました」が新情報として述部とその直前に付加されます。このようにして2つの文は、旧情報と新情報を受け渡しながら、文と文(sentence)が結束をして、テクスト(text)を織りなしていくのがわかるでしょう。これが情報構造であり、情報の流れの考え方になります。
日本語の場合
むかしむかし、// おじいさんがいました。
旧情報 新情報
↓
おじいさんは、// 山へ行きました。
旧情報 新情報
では、英語の場合はどうでしょうか? 上に対応する英語を考えてみましょう。
Once upon a time there was an old man.
The old man went to a mountain.
統語構造が異なる英語でも、旧情報については日本語と同じように、主語ないし述語の左の遠い位置に置かれますが、新情報は動詞の右側の後ろのほうに置かれます。最初の文では、「was(述語≒動詞)」の右側が新情報のスロットになるので、「an old man」が文の焦点になります。冠詞が「an」である(日本語の「が」に相当する)ことからも、これが新情報であることが分かるでしょう。
そして続く文では、新情報であった「an old man」が「the old man」へと変化して主語の位置(動詞の左の位置)に移動するので、旧情報へと格下げされます。代わりに「went to a mountain( 山へ行きました)」が述語の右側に出現して、新情報となります。これを図式化すると以下のような情報の流れになります。
英語の場合
Once upon a time there // was an old man.
旧情報 新情報
↓
The old man // went to a mountain.
旧情報 新情報
情報構造の観点から順送り訳は妥当
それでは、日本語と英語の情報構造を考慮しながら、次のA)とB)の英文和訳を考えてみましょう。
A) I sent him a letter.
B) I sent a letter to him.
英文法の統語構造だけを考えて訳してしまうと、A)もB)も同じ日本語訳になってしまいます(例:私は彼に手紙を送りました)。しかし、上述したように、情報構造をみてみると、英語では動詞の右側の後ろのほうにある項目が新情報(焦点)になるので、それぞれの文の新情報は下線部になります。つまり旧情報と新情報の位置関係は下のようになります。
英語に対応する情報構造を考慮して翻訳をするならば、日本語訳でも同じ情報構造になっているべきでしょう。以下に訳例を付与してみました(日本語における「新情報」は、述語の直前のスロットに来ると想定します)。
A) I sent him // a letter.
旧情報 新情報
×誤訳 私は手紙を // 彼に送りました。
旧情報 新情報
○正訳 私は彼に // 手紙を送りました。
旧情報 新情報
(≒ 私が彼に送ったのは、手紙です。)
B) I sent a letter // to him.
旧情報 新情報
×誤訳 私は彼に// 手紙を送りました。
旧情報 新情報
○正訳 私は手紙を// 彼に送りました。
旧情報 新情報
(≒ 私が手紙を送ったのは、彼です。)
これらを踏まえて冒頭に紹介の〈順送り訳〉をみると、原文の語順通りに訳すということは、情報構造の等価性を維持するためである、と気づくと思います。
〈順送り訳〉
①I came to Paris ②to escape American provincial.
①パリに来たのは ②アメリカの田舎から逃げるためです。
旧情報 新情報
このように、安西(1995)が「原文の思考の流れを乱さない」と経験的に言ったことは、情報構造から説明できます。英語と日本語の話者が異なる構文構造で思考するからといって、思考の順序が真逆でよいということにはならないと思うので、順送り訳にすることの妥当性を主張できるのです。
ニューラル機械翻訳でさえも、これまでの人間翻訳のコーパスから誤って学習してしまっている可能性があるので、機械翻訳の内部処理が文のレベル(end-to-end)でしかできない現状においては、情報構造の問題はまだ解決できていないのです。ポストエディットするにしても、情報構造の修正は不可欠になるでしょう。
参考文献
安西徹雄(1995)『英文翻訳術』 筑摩書房
亀井忠一(1994)『頭からの翻訳法』 信山社
中村保男(2001)『創造する翻訳』 研究社
水野的(2017)「通訳方略と情報構造」『上智大学言語学講演会』上智大学
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山田優(やまだ・まさる)
関西大学外国語学部/外国語教育学研究科教授
立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科博士後期課程修了、博士(異文化コミュニケーション学/翻訳通訳学)。社内通訳者・実務翻訳者を経て、最近は翻訳通訳研究に没頭し、2015年より現職。研究の関心は、翻訳テクノロジー論、翻訳プロセス研究、翻訳通訳教育論など。日本通訳翻訳学会(JAITS)理事。
企画協力:日本会議通訳者協会
※『通訳翻訳ジャーナル 2018 SUMMER』に初掲載。