【第10回】翻訳・通訳会社のクレーム処理「他力翻訳」
翻訳・通訳会社は、翻訳者・通訳者には見えない舞台裏で様々なクレーム処理を行っています。本連載は目的は、その一部を紹介することで、翻訳・通訳会社が日々取り組む業務に関して理解を深めてもらうことです。執筆は現役の翻訳・通訳会社コーディネーター。登場人物はすべて仮名です。
今年も上半期が終わり、いよいよ下半期が始まろうとしておりますが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。月日というものは、振り返らないと、いつの間にか過ぎてしまって、振り返ったときには、「あ!」と驚いてしまうものですよね。皆様にとって、この上半期はどのようなものだったでしょうか。このご時世のせいもあって、多くの方がこの先々について、思い悩んだことだと思います。
そんな時、ついつい人というものは、他者の力を借り得たいものかと思います。出来ることなら、楽をしたいと――。私もそんなその一人でありましょう。しかし、ビジネスという概念の中では、そうはいきません。“他力本願”という言葉が御座いますが、そうであってはなりません。刹那的に得られるものなど、無情なものに過ぎません。その誘惑は、甘い蜜を装った罠で御座います。今日はそんな“他力本願”ならぬ、“他力翻訳”のお話になります。
また、翻訳ソフトに関する話でもあります。このコラム、10回目にして、初の翻訳の題材となります。
翻訳者のキクタさんは、膨大な量の書類に頭を抱えていた。かれこれ、翻訳という仕事を続け、五年と半年のキャリアになる。まだまだ、彼も翻訳者としてはルーキーだ。しかし、キクタさんは、いち早く多くの仕事を得て、手っ取り早く、自分自身の自信と仕事での地位を得たいと考えていた。一日でも早くと――
――そう人は欲張りになってはならない。今、キクタさんはその欲張りから来る弊害に、悩まされている。手に負えないほどの仕事を引き受けてしまったせいで。
「どうしたものかな……。これじゃあ、期日までに間に合わない」
そう、独り言が漏れる間に、ふと、翻訳ソフトのことを思い出した。通常、翻訳者は己の手で、翻訳をやりきることが常である。しかし、時と場合ではあるが、翻訳ソフトを使うときがある。でも、それを使用する場合は、必ず、チェック、手直しを行うことが鉄則となる。そうしなければ、クライアントが、翻訳者に依頼する意味が消えてしまう。また、翻訳者の技量の低下にも繋がる恐れが大いにある。
キクタさんはまた深く悩んだ。今回はクリエイティブな内容のプレゼンテーション資料依頼だ。これを使ってしまえば、作業の効率に関しては明らかに軽減され、納期を遅らせなくとも済む。でも、使ったとしても、また自分の手で多くを手直ししなければならない――天使の助言なのか、悪魔の助言なのか、彼はその二つの選択に困惑してしまった。
「いいや。早く、終わらそう。大丈夫だ」
そう言って息をついたなら、機械翻訳を利用した。彼はその時、彼自身のプライドを捨て、罪悪感を捨て、とにかくスピードを求めてしまった。悩ましい、膨大な資料からの解放を望んだ。そして、チェック、手直しの手順を十分に踏まずに納品してしまったのだった。
後日、彼の元に一通のメールが届いた。依頼を受けていた、B社からのメールだった。そのメールを開いたら、以下の通りであった。
キクタ様
先日の依頼した資料の翻訳ですが、文字、ないし日本語の文法の不備が多数見受けられました。ご無礼を承知でお伺い致しますが、翻訳ソフトで翻訳したまま納品されましたでしょうか。
B社担当者
キクタさんは返事に困ってしまった。
きっと、バレない――そういった安直で、軽率な考えをした自分を大いに責めた。そして、彼はまた二つの選択を迫られた。正直に言うべきなのか、言わないでいるのか、と。しばらく考えたあげく、彼は正直に話すことにした。「納期に間に合いそうになく、ソフトを使いました」と。
やはり、案の定、B社からの依頼はそれ以来無くなってしまった。
いかがだったでしょうか。私自身、翻訳ソフトは悪だとは思いませんし、時にその力を利用するのは良いことだと思います。しかし、これは人間が成した翻訳では御座いません。昨今、機械翻訳は目覚ましい進化を遂げています。その進化だけは、目を見張るものがあります。誠に、驚異的な事です。
でも、言葉は人が人に届けるものです。言葉は機械が機械に届けるものではありません。当然のことでありながら、当然のように、改めて感じることは重要なことです。機械化によって出来るものは限度というものがあります。やはり、人の手が加わったものには敵いようがありません。
未曾有の災難に、多くの通訳者の方が不透明な状況の中、新たな活路に翻訳という手段を選ぶ人も多くなってきていると思います。
ですが、何かを成し得るためには、楽な道など御座いません。“他力”ではなく、“自力”が大いに要求されるものです。また、クライアントの目はごまかせないということを忘れないでください。
今回のポイント
- 機械翻訳を使う際は、チェックがより大切になる
- 機械翻訳を使用しても、いかに付加価値をつけられるか、クライアントが何を求めているのかを常に考える