【第25回】英語以外の通訳市場 ~インドネシア語編~
土部隆行(どべ たかゆき)さん
update:2017/08/01
「へえ、それは珍しいですね」
「いったいどうしてまた……」
初対面で「インドネシア語の通訳・翻訳を生業にしている」と言うと、こんな反応が返ってきます。
ナシゴレン(焼き飯)が広辞苑に載るようになっても、日本人にとってインドネシア語はいまだに縁遠く、それ一本で食べている人間はずいぶんと風変わりに映るようです。インドネシア語には、マイナー言語というレッテルが付いて回ります。希少言語だとか特殊言語などと呼ばれることもあれば、諸言語・その他の言語として十把ひとからげにされてしまう場合も少なくありません。
今回「インドネシア語の通訳市場」というお題を頂きましたので、そんな「マイナー言語」が日本国内でどのような現状にあるかを一現役通訳者の視点からお伝えしたいと思います。
なお、私自身は通訳と並行して翻訳の仕事もしており、ここで書いたことのほとんどは両方に共通した話です。翻訳にも関心のある方は、「通訳」を「通訳・翻訳」に置き換えて読んでみてください。
インドネシア語ってそんなに需要あるの?
インドネシア語は、ASEANの盟主といわれるインドネシア共和国の国語で、唯一の公用語です。数百もある種族を一つに束ねる共通語として、全土で広く通用します。
そのインドネシアの人口は、世界で4番目に多い2億6千万人。国民の年齢構成は全体に若く、今まさに伸び盛りの活気みなぎる大国です。人口ボーナス期のただ中にあり、中間所得層が急拡大し続けるインドネシアは、生産拠点としてだけでなく巨大な消費市場としても世界の注目を集めています。来年(2018年)国交樹立60周年の節目を迎える日本との関わりも、貿易や投資から観光、文化交流に至るまで官民問わず多方面にわたり、極めて密接です。
発展著しい首都ジャカルタ
そこにどれほど膨大な通訳需要があるかは、想像に難くないはずなのですが……。マイナーだ特殊だといったレッテルが目を曇らせるのか、業界内でもインドネシア語の市場規模を見くびっている人が多いと感じます。
供給側の現状は?
需要が大きいのはよいとして、供給のほうはどうなっているでしょうか。
まず何といっても、職業通訳者の絶対数が足りていません。通訳一本の人に加えて、私のような通訳・翻訳並行組までを広い意味の専業と捉えても、その数は本来の市場規模からすると話にならないほど寂しいものです。足りない部分は兼業の方たちの力を借り、業者によってはさらに強引な員数合わせまでして、増え続ける需要をどうにか賄おうとしています。
通訳者の数が集中する東京圏でもこのありさまですから、地方での手配がどれほど難しいかは推して知るべしです。東京圏以外を拠点とする方々もいらっしゃいますが、一定レベル以上の仕事に対応できる人はほんの一握りに過ぎません。そうしたわけで、結局は常に決まった顔ぶれに全国各地からお呼びが掛かることになります。
通訳方式の面から見ると、逐次もさることながら、より人材不足が深刻なのは同時です。インドネシア語の同時通訳者はそれこそ数えるほどしかおらず、わざわざインドネシアから呼び寄せたり、どうしても手配がつかず断念したりといったケースもままあります。
同時通訳に限らず、「通訳者の手配がつかず断念」や「強引な手配がたたってクレーム発生」が繰り返されると、そのうちインドネシア語のまともな手配ははなから無理だと見放されてしまいかねません。そうならないためには、通訳会社や関連団体、大学その他の教育機関なども巻き込みながら人材の発掘と育成を進め、全体的に層を厚くしていく努力が不可欠だろうと思います。
また私たち通訳者やその志望者どうしの間でも、もっと積極的にネットワークを広げて、紹介をし合ったり駆け出しの人を引き上げたりしながら、いつでもさっとチームを組んで(あるいは適材適所で手分けをして)業務に当たれるような土壌を日ごろから育んでおく必要があります。
駆け出しの人と言いましたが、近ごろはその存在自体をとんと耳にしなくなりました。逆に、これでは食べていけないと見切りをつけて廃業したとか、別の仕事に軸足を移したとか、そんな話ばかりが聞こえてきます。専業という立ち位置に踏みとどまっている人間は、もはや絶滅危惧種だといってよいかもしれません。
動物の群れには、「最小存続可能個体数」(絶滅を避け、種を存続させるために最低限必要な頭数)なるものがあるそうです。それを下回ったが最後、残された個体たちがどんなに頑張っても、もはや手遅れなのだとか。職業通訳者の世界を一つの生態系になぞらえると、インドネシア語の群れは今その最小存続可能個体数を割ってしまうかどうかの瀬戸際にあるように思えます。
急速な需要拡大という本来喜ぶべき環境変化にさらされる中、全体としてそれに応えるだけの十分なキャパシティーがないまま無理を重ね、あえなく破綻に至る。そんな展開が、昨今にわかに現実味を帯びてきました。
需要に供給が追いつかないのに、肝心の供給者は減る一方。だからといって残った供給者が寡占化による売手市場で有利な立場をほしいままにしているかというと、そうでもない。むしろいろいろな無理のしわ寄せを受けて、ひいひい言っている側面が強い。これは、業界の旧弊や体質、構造的な問題など、いろいろな歪(ひず)みが積み重なって生じた異常な状況です。
そもそもこうした事態に至った根本的な原因は、いわゆる「マイナー言語」の通訳者がプロとしてちゃんと食べていける(生業として成り立つ)環境を皆で整えてこなかったことにあると思います。そこを何とかしないかぎり、いくら人材の発掘うんぬんと叫んでみたところで誰もその気になってくれようはずがありません。
状況を変えていくために
やるべきことは山ほどありますが、まず何を取っかかりとしたらいいでしょうか。
一つには、先ほども触れたように通訳者やその志望者どうしのネットワーク(オープンで緩やかなつながり)を広げることだろうと思います。情報や認識を共有し、お互いに協力、連携していくことは、大きな力となってくれるはずです。
そしてもう一つは、職業通訳者の存在をもっと広く知ってもらうこと。そんなところからというのも情けない話ですが、インドネシアと関わって長い方たちにまで「日本にそれを生業とする人がいたとは」と驚かれてしまうのが現実です。そもそも存在すら知られていない状態では、抱えた問題に目を向けてもらうことも望めないでしょう。
ここ最近、私が柄にもなくオンラインでの露出を増やし、オフラインでもできるだけ多くの場へ足を運び人と会うように努めているのも、これら二つが大きな動機になっています。
通訳者は裏方に徹し、むやみやたらと表にしゃしゃり出るべきでないといわれればそうなのですが……。今はあえて表へ出ていき、同業者どうしの間でも、また対外的にも、各自の存在が「見える」ようにすることを優先すべき時だと割り切るほかありません。
終わりに
「インドネシア語の通訳市場」というお題で書くに当たっては以下のようなトピックにも触れたかったのですが、一度にあれもこれもだと散漫になってしまうので別の機会に譲ります。
- 料金相場と「適正料金」の考え方
- ビジネス、放送、医療、司法といった通訳ジャンルごとの動向
- 需要側と供給側のニーズをマッチングさせる仕組みづくり(不幸なすれ違いの解消)
- 人材を適切に評価し、その結果を待遇などの面に反映させる仕組みづくり
- クライアントやエージェントとの関係(よりフラットで風通しのよいものに)
- 新たな業態やビジネスモデルが持つ可能性(毛嫌いせず、積極的に連携)
- スペシャリストか、ジェネラリスト(オールラウンダー)か
- 通訳と翻訳を並行して行うことによる相乗効果
- インドネシア語以外の通訳者さんたちとの互恵的な関係
- 英語通訳の世界との違い、英語の通訳者さんたちに学ぶべきこと
- インドネシア在住の通訳者さんたちとの連携
- 混同されやすいマレーシア語とのすみ分け
- 実用とかけ離れた「母語」や「マレー語」といったくくり方のせいで、インドネシア語の話者人口が実際よりもずっと少なく見られてしまう問題……等々
今回ご紹介した現状は、インドネシア語の通訳者を目指す方たちにとって、すぐにばら色の未来が描けるようなものではないかもしれません。ただ、潜在需要の巨大さをしっかり見据え、その掘り起こしや山積する課題の克服も含めて本気で打ち込む覚悟があれば、将来的な望みとやりがいは十二分にあると思います。
そうした覚悟と期待を胸にインドネシア語通訳者を目指そうという方に対しては、私も微力ながら精いっぱい後押しをするつもりです。この機会につながりを作っておこうという方は、いつでもご連絡ください(志望者だけでなく、現役通訳者や他の言語を専門とする方、その他通訳・翻訳あるいはインドネシアに関心のある方ならどなたでも歓迎です)。
幸いなことに、インドネシア語通訳の世界には尊敬できる頼もしい同業者が何人もいらっしゃいます。それらの方々にも協力を仰ぎつつ、この先皆で力を合わせて全体のレベルとキャパシティーを高めていければと思っています。
インドネシアは、日本にとって経済、安全保障などさまざまな面で重要な国です。両国間の橋渡し役である(特に専業の)職業通訳者を間違っても絶滅させるわけにはいきません。
まずは少なくとも「最小存続可能個体数」を下回る心配がない程度にまで仲間を増やし、生態系の維持再生を図ること。そして、そこからさらに良い連鎖を広げ、バランスよく層を厚くして、全体がうまく回り出す状態にまで持っていくこと。そのために、私も自分にできるかぎりのことをやっていくつもりです。
以上、とりとめなくなってしまいましたが、この辺りで次の方にバトンを渡したいと思います。最後までおつきあいくださり、ありがとうございました。
土部隆行(どべ たかゆき)さん
Profile/
インドネシア通訳者・翻訳者。大学時代に縁あってインドネシア語と出会う。卒業後は現地への語学留学を経て、団体職員として駐在勤務を経験。
その後日本に戻り、1999年に専業フリーランスの通訳・翻訳者として独立開業。インドネシア語一筋で多岐多様な案件に携わり、現在に至る。