【第10回】大手を振って中道を行く−できない私の通訳雑談「大学院でサバイバル!の巻③」
オーストラリアの大学院に入り「忍耐の理論」、そして「苦痛のスピーチ」の授業(こちらから)、今回は速読の授業についてです。今回は前回の続きからお送りします。
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もう一つ印象に残っている授業は速読の授業です。この授業ではひたすら毎週本を読まされました。読む本は何を選んでもいいのですが、宿題として毎週読まなければならないページ数は増えて行きます。授業ではまず、「単位時間あたりの情報入手量は、聞くよりも読む方が多い」と教えられます。そして、「速読の秘訣は指の動きにあり!」ということで、色んな指の動きの作法を学びました。最初は目と同じスピードで指を動かしつつ、逆戻りをしないで読み進めます。慣れてくると、指を2、3行ほど先行させ強制的に目の動きを早めます。もっと慣れてくると、大きなジグザグを描きながら指を左右に動かして、さらに早く目をついて行かせます。コツは一つの単語に目を固着させないこと。言葉を頭の中で音読しないことです。常にできるだけ視野を広げて多くの文章を目でとらえるようにし、読むというよりも、情報の塊をインプットするという感じで前に前に読み進めます。練習をしていると、徐々にページを早くめくれるようになって行きます。こういうのもアリかなと思いましたが、理解の遅い私は速読で目のスピードが早くなればなるほど、雑念が入って読み直しの回数が増えてしまいます。結局、実戦につなげることはできず、今も結局、シコシコとスラッシュを入れて読んでいます。
さて、なんやかやで最初の半年は基礎となる理論やスキルの勉強をしてきましたが、後期になって通訳の授業が始まりました。
大学には大きな視聴覚の教室があり、各テーブルにはマイクとテープレコーダーが設置されています。生徒は各々のテープをこのテープレコーダーに入れ、自分の通訳を録音します。先生は一番前で生徒と対面式に座り、スピーカーのテープを流します。生徒は流された内容を逐次通訳し、録音します。通訳中は先生がそれぞれの生徒の通訳を講師席からリモートで聴いています。ある程度進めた後に、順番に生徒のテープを巻き戻して全員で聞き直し、講評が行われます。つまり、通訳学校の逐次のクラスとほとんど同じだと思います。私が通っていたインタースクールでは、逐次の授業は順番にしか通訳をすることができませんでしたので、2時間の授業で実際に通訳をするのは10分ぐらいじゃないかと思いますが、大学では基本的に各自がすべて通訳し録音しました。通訳の量としてはかなり多かったと思います。また通訳の授業で使われるスピーチのテーマは、数週間ごとに変えられました。このテーマは、今は絶版になってしまったTRENDという現代用語の英和辞書の見出し項目に沿った形だったので、毎週、TRENDの該当する項目の英単語を数ページ分、ひたすら覚えてくることが宿題となりました。多い時は10ページ以上あったので、今から思うと、なぜ毎週あれほど莫大な単語を覚えられたのか不思議です。私は邪道ですので、長い単語はカタカナ読みで覚えていました。例えば「subcutaneous皮下の」などは、「寒かったね、お薄(サブカッタネオウス)」と覚えていました。これを自慢げにクラスメートに伝えると、「それはちょっと宜しくないやり方である」と諭されました。諭してくれた優秀な友人曰く、医薬関連の単語はラテン系の言葉が多いので、各部位の意味を理解した上で体系的かつ網羅的覚え、単語力を高めるべきだとのことでした。その彼女は、今は優秀な医薬翻訳のエクスパートです。
後期になるといよいよ通訳の授業がはじまります。初めての通訳体験ということで、数字の訳し方やメモの取り方など、一から教えてもらいました。皆さんもやられたことがあるかと思いますが、20センチの物差しのような紙を用意し、英語と日本語の数字を呼応させるように書いたカンニングペーパーを作ったりもしました。ノートテイキングの授業では、頻出する単語や接続詞、前置詞、増減などを記号化することや、ステートメントにおけるセンテンスや、さらには節や句の関係性を明示することを教えられました。私はこの時点で複数の記号を考えたのですが、20年がたった今でもあの頃に決めた記号を使っています。一番役立つのはthis (week/ month)、when、while、because、therefore、think (believe)、decide、result inなど、基本的な文章で頻出される単語や時間を示す単語の記号化です。私は筆圧が強く、字も下手で大きいので、記号化はとても助かります。ただ、不思議なことに最初に決めることを怠った頻出単語、例えばimportant/ criticalなどは今でも「大事」とか普通に書いてしまいます。仕事を始めてから何度か記号化を試みたのですが、どうもしっくりこず、そのままになってしまっています。何方か良い記号があれば教えてください!
さて通訳の授業は、日英と英日そして逐次と同通と分けられており、毎週合計4回の授業がありました。これに加え、外部のスピーカーを招聘して開催される「フォーラム」と呼ばれるミニ講演会の授業がありました。このフォーラムは、国際会議場さながら、会場を見下ろす中二階部分に通訳ブースが設置された教室で開催され、1年生は観客として、そして2年生は通訳として参加します。2年生のうち2名は、持ち回りでフォーラムのリーダーとなり、リーダーはスピーカーとの打ち合わせや資料の手配などの責任を持ちます。本番は、この2名が会場で逐次通訳、残りの2年生は中二階のブースから同時通訳を行います。講演会のスピーカーはボランティアなので、先生方の知り合いだとか大学の別の学科の先生にお願いして来ていただくことが多いようで、先生のご家族がいらしたこともあります。とはいえ、皆さんかなり気合を入れて準備してくださるので、かなり立派なすぴーとが多く、その分野も医療や金融関係から交通システム、スキューバダイビングやドッグトレーニングまで多岐にわたっていました。このようにスピーカーのバックグラウンドも、スピーチのトピックも多種多様なものを相手にしなければならないというのは、私のように特に専門分野を持たない通訳としては、正に現実さながらの、通訳訓練として、望んでも叶わないような授業であったかと思います。そんなこととは露知らず、フォーラムに観客として参加する1年生は、2年生の素晴らしい通訳にひれ伏し、1年後には自分達がそこに座っているかと想像すると、それだけでお腹の調子がやばくなったりしていました。
授業で緊張するのにはいくつか理由があります。ひとつは、先生方がオーストラリアでトップだと称されるような、雲の上のような方々ばかりだったことです。私たちは先生方を、「神」だとか「宇宙人」だとかいって崇めていました。日英の先生については先輩から、生徒が変な通訳をすると「神がrolls her eyesする(あきれ返る)」から気をつけるようアドバイスされ、英日の先生はあまりにもすごすぎて、雲の上どころか「宇宙人」のようだと崇めていました。
とはいえ、これは私たちが勝手に怖がっていただけであって、実際は、そんな神や宇宙人から何ら再起不能な厳しいことを言われたこともありませんし、目をグリグリ回されたこともありません。どちらかといえば、「burn outするから、頑張りすぎるな」とアドバイスされていました。とても指導力の高い、温かい先生方だったと思います。
では、なぜこんなに神経が昂っていたのか。それは結果論として、修士課程を無事終了することが難しかったからです。
私たちは当初、19人と非常に人数が多い学年でした。19人が多い?と思われるかもしれませんが、修士の過程になると通常は5、6人のクラスが一般的です。私が最近まで教えていたモナッシュ大学でも、通訳コースの修士課程では、多くても1学年7、8人というところでした。もちろん、中国語のように需要も高く、話者の人口も多い言語では20人程の学生が集まる場合もありますが、他の言語では日本語でも5、6人、ヨーロッパ言語だと3、4人というのが一般的だと思います。
私たちのクラスが19人だったというのは、あくまでも当初の在籍学生数です。
後期の授業が終了すると通訳の試験があり、ここで2学年への進級が判断されます。先生には最初から、「1学年から2学年に上がるのは難しい。2学年への進級は最終的に卒業できる見込みがあるかで判断するから」と伝えられていました。ただし後期になって通訳の授業が始まり、先生に見込みありと判断していただくまでの期間は半年しかありません。通訳の授業では相変わらず上手く訳せません。英日は英語が聞き取れないし、日英は英語が下手すぎて先生の眉間のシワを深くさせてしまう。おまけに日本語の理解もかなり怪しいものがありました。また後ほど言及したいと思いますが、翻訳やサイトラの授業もありましたし、ノートテイキングなどの基礎も学んでいます。通訳に必要な基本的なスキルを学んでいれば、半年もすれば進級試験に合格する程度の通訳はできるようになるはずなのです。私の優秀なクラスメート達は正にそれを体現していたかのように思えました。一方私は、全く上手くなっている感じがしませんでした。プライベートでもっともっと練習できれば良かったのかもしれませんが、学生兼シングルマザーをやっていると、中々そうもいかない。授業が終われば大急ぎで保育所まで娘を迎えに行き、夕食を準備して、お風呂に入らせて、ゴキブリをゴム草履でやっつけて、娘を寝かせつけ、9時過ぎごろになってやっと自習の時間がもてます。ただし敵もさるもの、10時ごろになるとオネショをした娘が起きてきて、もう一度仕切り直しです。そんな中で進級試験を受けることになりました。
結果から言うと、無事合格。2年生に進級することが出来ました。ただこの時点で19人いた生徒が半分に減ってしまったのです。1名は当初から1年だけ修士課程で学び、honours degree (優等学位)をとって退学する予定だったのですが、その他の学生は日本からの留学生も含め、全員修士号を授与されること望んでいたにもかかわらず、進級が認められなかったのです。このように不合格となってしまった学生達には、温かい先生方から優等学位が与えられましたが、残った私たちには激震が走りました。ここから私たちは血を吐くような(大袈裟じゃないか?)猛勉強を始めたのです。
さて次回はいよいよ最終回!大学卒業からその後についてお話ししたいと思います。
「大手を振って中道をいく」って何?のお話もしたいと思います。
エバレット千尋
フリーランス通訳。オーストラリアのモナッシュ大学大学院で通訳翻訳の講師を務める傍ら、一年に10回以上日本とオーストラリアを往復し、日豪両国で医療、医薬、金融、IT、その他幅広い分野で活動中。高校時代は、受験に主眼を置いた日本の悪しき英語教育の中で脱落し、英語への関心がゼロに失墜。その後、美術学校時代に一人旅をしたインドで「コミュニケーション」としての英語に目覚める。NOVAやECCで英語の基礎を学び、インタースクールで通訳訓練を受けた後、クイーンズランド大学大学院に留学。日本語通訳翻訳学科での修士課程を経て通訳デビュー。英大手通信会社で社内通訳を経験し、フリーとして独立。2007年にオーストラリアに移住。一年の3分の1を東京で過ごすが、心は関西人。街で関西弁を聞くと、フラっとついて行きそうになる。京都市生まれ。