【最終回】大手を振って中道を行く−できない私の通訳雑談「大学院でサバイバル!の巻④」

毎回前書きばかりが長くなるコラムも今回でいよいよ最終回となりました。このコラムを書いている6月初旬、緊急事態宣言は解除され、世間ではやれ「ポストコロナ」だとか、やれ「ウィズコロナ」だとか、巷では語呂の良いカタカナ英語が飛び交い、明るい気持ちになっていいのかなと思えば、「Tokyoアラート」なんていうものが登場して、やはり緊張を続けるべきなのか、もはや訳のわからないことになっている今日この頃です。少なくとも仕事の状況だけをみると、超スーパー氷河期真っ只中であることに間違いはありません。「あ、そんなことないですよ、ボチボチ問い合わせも増えてきましたよ」と言いそうになったそこの貴方、ちょっと待った!そこはグッと堪えて口をつぐんでおくように。こちらは開店休業中ですので。私は、8月末まで2020年は存在しなかったことにしようと思っています。9月になったら改めて新年の到来を祝い、仕事始めをしたいと思います。もしかするとそれも無しにして、私の人生からこの1年を抹消しても特に差し支えないかもしれません。

さて、当初このコラムを書き始めた時、タイトルに「中道をいく」という表現を使いました。「中道」は仏教の言葉であったりするのですが、特に有難い仏教の教えを伝えたくてつけたタイトルではありません。ちなみに仏教辞典によりますと、中道とは「矛盾対立する二つの極端な立場のどれからも離れた自由な立場である「中」を実践すること」とあります。改めて、通訳の立場に通じるものがあるように思うのですが、いかがでしょうか。私たち通訳は、「Aさんの言葉を聞き、それを理解しBさんの言語に置き換えて伝える」というのが仕事ですから、あくまでも文化と言語を異にする2者の対話者(interlocutors)のコミュニケーションを、「土管」の役割を演じて成立させるために存在します。ただ言語は、その使い手の思考や文化を反映させるものですから、聞き手にとって「腹落ち」する適切な訳をするためには、双方の文化やシチュエーション(会議のトピックだとか技術的内容)をできる限り理解し、咀嚼した上で適切な言葉の連なり(strings of words)として伝えることが必要になります。つまりリサーチが必要になるわけですが、そのプロセスで色んなものが見えてきたりします。結果として、「Aさんの立場もわかるけどBさんの立場もわかる」ことになってきます。テクニカルな会議であっても、「A社はこんなすごい技術を持ってるけど、B社はここがすごい」ということになるし、「A社の主張はもっともだけど、B社もこれは譲れないよね」と妙に納得したりしてしまいます。それでも仕事の時は、会議の参加者の主張だとか、その背景への理解を深めると訳出もしやすくなるのですが、実生活では微妙なところがあります。

私は京都出身で、オーストラリアではメルボルンに住んでいます。ご存知ない方も多いかと思いますが、京都は最近弱体化が進んできたとはいえ、日本共産党の地盤が強固で、かなり左派色が濃厚(left leaning)なお土地柄のところです。私が(めちゃくちゃ)小さい頃は、路上で警察と対峙する学生運動の見物に連れて行かれたりしましたし、家には毎朝「赤旗(共産党の機関紙)」が届けられていました。メルボルンもかなり左派が強いところです。理由は良くわかりませんが、今は閉鎖となったトヨタやフォード、ホールデン(オーストラリア唯一の自動車ブランド)の大きな工場が長年稼働してきたところであり労働組合が活発で、そこから左派の労働党が強かったのかもしれません。あくまでも推測です。もしかすると、オーストラリアの国民性を象徴する互助の精神でもあるmateshipが強く反映されているのかもしれません。究極の一般化をすると、地方は保守的、大都市であるメルボルンは社会自由主義的だともいえるでしょう。

うちの主人はメルボルンの出身で、まさにこのメルボルンの気質を体現したような人です。以前はyouth worker(社会で周縁化されてしまった若者を対象とするソーシャルワーカー)をしており、今は難民を中心とする新規の移民の子供たち(new immigrants)の小学校で教師をしています。多文化国家のオーストラリアでは、英語が不得意な移民の子供たちを対象とする特殊学校があり、ここでは3ヶ月から6ヶ月かけ外国語としての英語能力(ESL)の強化をはかりつつ学習指導要領に則って算数や理科などの授業がすすめられます。半年が過ぎ、英語能力をつけた子供たちは通常の小学校(mainstream schools)に転入していきます。そんなことから主人は、難民に始まり、労働者や人権の問題が大好きです。そして金持ちや大企業、スーパーマーケットはみんな悪だと思っています。

ところで、このコラムを書き始めた頃、オーストラリアではちょうど国政選挙が行われていました。与党連立政権(自由党と国民党)はちょうど日本の自公連立と同じ、保守(中道右派のもうちょい右寄り)の政権です。そのちょっと前、自由党では党首が下克上(leadership spill:党首不在を宣言し党首選を行うこと。事実上の造反での党首交代)され首相が交代しました。ただし、これは国民の信任を得た首相ではないとして、当時の国政選挙では野党の労働党が大勝利を収めるだろうと考えられていました。

ちなみにオーストラリアでは選挙での投票が義務化されており、投票を行わないと罰金が科せられます。そのため、投票しないことで政治への不満足を表明することはできません(白紙投票はできると思います)。このため、自ずと様々な議論を通じての政治参加は活発になります(日本と大違い。)

そんなこんなでコラムを書き始めていた頃、我が家では旦那の政治議論が炸裂していました。新聞を読んでは怒りをぶちまけ、テレビのパネルや討論会を見ては与党の政治家たちに悪口雑言を浴びせていました。まあ、幸せな一般家庭のよくある光景です。ただ通訳の私は、どうしても「そうは言っても相手にも言い分はあるでしょ」となってしまいます。確かにグリーンピースの仕事もしますが、石炭やシェールガスなどの資源の会議もやります。金持ちの投資家のお兄さんたちの相手もします。日本の保守派の若者たちの会議だって通訳しました。とはいえ、昔は必ず共産党か社会党に投票していましたし、アーティストを目指していたこともあり、かなりリベラルな考え方も持っていました。ただ通訳の仕事を通じていろいろな立場の人たちを学ぶ立場になり、世の中そんな直球勝負で良し悪しを決められないよね、と思うようになってしまったのです。テレビに向かって(家族を巻き込み)激昂する旦那を横目に、「うんうん、アナタの言ってることわかるよ〜。でも敵(与党)の言ってることもわかるしねー」と、両極のどちらにもつけない(どっちつかずの)私がいました。両者のいずれにも本気で仲間入りできない。それでも双方の気持ちがわかる大局的な視点をもった自分でいたい。このコラムのタイトルは、国政選挙の議論(与野党の悪口の言い合い)に少し嫌気が差していた頃につけました。通訳の仕事は、対話の参加者の言い分を誰よりも理解しつつどちらにも肩入れしない、そんな中立的な立場が求められることがあると思います。もちろん、どんな仕事にも当てはまることではないと思いますが。

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さて、前回は大学院での1年目が終了し、クラスメートの半分がいなくなり、残された私たちに激震が走ったというところまでお話ししました。

2年目になると、理論やスピーチといった周辺的な授業がなくなり、通訳と翻訳に特化した授業構成となります。

前回もお話しましたが、簡単におさらいすると、通訳は英日と日英、それぞれの方向で同通と逐次の授業に分かれていました。指導なさる先生方は業界の神様や宇宙人たちであり、TL(target language)つまりアウトプットの言語のネイティブの方々でした。授業の進め方は、それぞれの授業は視聴覚教室で行われ、自分の通訳は各自の机に設置されたテープレコーダーに、持ち込んだカセットテープを入れて録音します。先生が講師席からスピーチのテープを流し、それを各自が訳してテープに録音する。そしてしばらく通訳をした後に先生が生徒のテープを遠隔で巻き戻し、再生して講評するという形で進められます。

通訳学校と大学院での通訳の授業で違うなと思ったのは、授業で通訳をやる量が大学院の方が圧倒的に多かったことと、先生方の講評のアプローチです。日本の通訳学校では、「この単語が抜けている」とか、「ここを聴き間違えている」といった、講師の手元にあるスピーチ原稿と異なる部分が指摘されることが中心だったのですが、大学院では通訳全般のクオリティとそれを向上させるためのアドバイスに主眼がおかれていたように思います。実際に私も大学院で通訳を教えていましたが、最初の授業の前にコーディネーターの講師から指示されたのが、「抜けや漏れの細かい部分ではなく、通訳スキルを重視した指導をする。生徒自身に議論させ考えさせる指導をこころがける」ということでした。通訳の際、訳出に単語が抜け落ちたりすることは良くあることだと思います。その抜け落ちた単語を「これが抜けていた」と指摘しても、抜け落ちた原因が改善されていなければ同じことを繰り返すわけです。抜けていた原因が、「知らない単語が出てきたから」ということであれば、単語を覚えれば次は聞き取れるはずです。

ただもしかすると、原因はもっと根本的な通訳技術にあるかもしれません。例えばメモ取り。聞こえてきた単語をひたすら書き留めるだけで、構文として捉えていなかった。このため文節や文と文の間の関係性が見逃され、ひいては大きな塊としてのメッセージも見失ってしまった。訳出の段階になると、書き留めた単語だけで何とか文章を作ろうとするけれど、内容は支離滅裂になってしまっただとか。これは明らかに「木を見て森を見ず」の状態ですから、メモの手を休めてメッセージを捉える、あるいはsyntaxを正確に聞き取ることが必要になります。もしかすると、解釈し難いコンセプトや専門的な情報があったために焦ってしまい、集中力が途切れて耳がおろそかになってしまった、ということかもしれません。これも通訳スキルの問題ですから、「集中力が途切れそう」になっていることに気づき、意識的に集中力を取り戻し聴き続けられるようにしなければなりません。もしかするとスピーカー側に問題があったのかもしれません。早口で、しかも固有名詞を羅列しているなど。こうなったらdamage control(羅列の一部のみ訳出するなど)しながら、最善の訳出に努めるしかないかもしれません。スピーカーに聞き直すことができるなら、それも必要でしょう。

そんな中で私が受けてた注意は、「声がやばい」ということでした。特に日英の訳出では「声が変に深すぎて聞きにくい。長時間の会議になると聞いている者がつかれる」と指導されました。訳出それ自体がスーパーお粗末(おそ松)君で、意味をなしているかどうかも怪しい悲惨な状態だったので、「訳出の時の声のコントロール」は全く予想していなかったコメントでした。声のことを言われると、カセットテープを聞き直して確認しなければなりません。でも録音された自分の声っていやですよね。ましてや、ボロボロの通訳をしている自分の声など、絶対に聞きたくないものです。先生の指導を受け、改めて嫌々ながらテープを聞き直してみると、やっぱり低いような気がしました(もちろん訳出は何を言っているのか不明でした。)そこで翌週の授業では、声のトーンを少し上げて訳してみました。すると今度は「声が柔らかすぎてよく聞こえない。先週と今週の間くらいのトーンにしろ」と言われました。中道を行くのは難しいものです。もう一点、英語ネイティブの先生に指導されたことがあります。それは「She don’tのように人称と動詞形が合っていない者がいる。基本の文法が少しでも誤っていると、それだけで通訳内容の信頼性が落ちてしまう」ということでした。その時はさすがに「私はshe don’t」は言ってないわよ、と思いましたが、テープは嘘をつきません。見事にshe don’t 「調」の訳出になっていました。私のクラスメートは、「dictionがおかしい」と繰り返し言われたことを今も覚えているそうです。まさに的を得たアドバイスだったと。大学院では、プレッシャーの中で多くの情報処理を瞬時にしなければならない通訳環境において、集中力を保ちながら、「聴衆の視点で」客観的に訳出のコントロールをすることがいかに重要なことなのか、その重要性を教えられたと思います。通訳スキルの大事な要素の一つですよね。

さて、このように2年目の授業は通訳と翻訳、そして前回お話しした「フォーラム」に特化して進められるようになったのですが、さすがにこれだけだと授業の間には時間があります。そこで私たちは少人数のグループで集まり、自主的に通訳の練習をするようになりました。私たちはこの勉強会を「道場」と呼び、1週間に2、3回は一緒に勉強しました。道場で使うネタは、クラスメートが日本の通訳学校で使っていたという素材や、過去の「フォーラム」の授業の録音でした。クラスメートが持ってきてくれたテープには、アメリカ大使館で長年通訳をしているという先生の逐次通訳も録音されており、その訳出の正確さにハートをわしづかみにされたものです。クラスメート曰く、この通訳者はノートテイキングが特殊で、スピーカーが発話した順に、ダーっと横方向に詳細なメモを取るということでした。すごいなと思いましたが、こればかりは今もできません。私のメモは当時も今も解読不能なドデカい文字と、記号やヘタウマの絵が散乱する凄まじいものです。メモは通訳のキャラが出るところですよね。大学では、先生たちの指導も素晴らしかったのですが、この「道場」はとてもいい経験になりました。半分くらいの時間をだべって過ごすことも多かったのですが、不安や相談事をしつつやる気を維持し、お互いに教え学び合ったことは大きな収穫になったと思います。道場の友人とは20年経った今も連絡し合いますし、一緒にブースに入ることもあります。

大学院2年目は通翻訳の授業や道場で瞬く間に過ぎていきました。前期の最後に通訳の試験があり、そこでも後期に進めなかったクラスメートが1名いたのですが、先生によると、これは非常に例外的だということでした。私たちも、1年目の最後の試験で厳しく評価されるのは、その時点で卒業できるかどうかの見極めをつけるためだと聞いていました。つまり、2年目に上がれるということは、ほぼ確実に卒業できるということだったのです。それがここでも仲間が一人減り、私たちは再び愕然としました。「道場」での修行に一段と力が入ったのはいうまでもありません。

そんなこんなで後期の授業も瞬く間に過ぎ、卒業試験となりました。翻訳の卒業試験は、共通課題一つと、経済や医学など3つの専門分野から2つを選び、1日かけて訳すというものでした。コンピュータは自宅から持ちこんでも構いません。私は既に1年生のうちに翻訳の国家試験は合格していたので、特に高みを目指すこともなく50点以上のスコアをとって卒業の合格ラインに達することを目標にしていました。卒業試験で70点以上とると、卒業だけでなく国家試験にも合格するというオマケがついてくるのですが(正確には、国家資格の付与を大学側が資格認定機関に推奨する)、卒業試験の70点は難関なので、資格が欲しいなら別途国家試験を受けた方が良いと推奨され、私は1年生の最後に外部で受験しました。

通訳の卒業試験は3段階で構成されていました。同通が二つと逐次が一つ。英日と日英がありますから、合計で6つの試験を受けます。順番はスクリプト有りの同通。初見の逐次、初見の同通でした。それぞれの試験のトピックは1週間前に開示されますが、例えば「リーマンショックの影響」といった具合の、非常にざっくりとした情報です。つまり、スピーチのタイトルやスピーカーの情報から、スクリプトを事前に探せるような性質のものではありません。まあ当時はインターネットもダイアルアップの時代ですから、ネットサーフィン(死語か!?)して試験に出題される(あるいは関連の)スクリプトを探そうと思っても、ほぼ不可能だったと思います。粛々とトピックに関するリサーチをし、単語リスト作りに励んだほうが良いわけです。スクリプト有りの同通では、試験の24時間前にスクリプトが一斉に配られます。この試験で先生方が推奨なさっていたのが、「グループでの準備」でした。「スクリプトはかなりの長さがあるため、準備も並大抵ではない。グループで手分けして効率的に準備しないと追いつかない」と言われ、私たちはグループを組み、手分けして単語を調べ、訳語を考えました。

試験は終日かけて行われます。このため私は、スクリプトの解禁日から試験の当日まで、保育所の先生に大金を積んで娘をベビーシッターしてもらい、プライベート面では準備万端で備えました。大好きな先生のお家で娘は、普段は許してもらえないマクドナルドの夕食を与えられ、好きなビデオを見まくって、とても幸せなお泊まりを楽しんだようです。試験の内容は決して簡単なものではありませんが、泣くほど難しいものでもありませんでした。ただ問題は緊張です。人生の中であれほど緊張したのは、シンクロの試合でソロを泳いだ時ぐらいだったと思います。帰国後インタースクールの卒業試験(プロ科入学試験)を受けた時も超スーパーに緊張しましたし、駆け出しの頃は仕事のたびに緊張でお腹が緩くなっていましたが、心理的にズーンとくる緊張という意味では、大学院の卒業試験に比較できるものはありません。チャンスは一度。色々と犠牲にしてきた2年間の集大成であり、後がないですからね。

それでも試験はなんとなく無事に終わり、卒業が認められました。修士だけでなく国家資格推奨のおまけ付きでした。ちなみに、私達の学年はほぼ全員が国家資格付与を推奨されての卒業となりました。皆かなり優秀だったようです。他の生徒は実力が認められたところだと思いますが、私については先生の温かい配慮以外に何ものでもありません。ごちそうさまです。今でもなぜ資格がもらえたのか本当に不思議ですが、ありがたく頂戴しました。

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さて、これまで長々とできない私の通訳への道について語ってきましたが、最終回もそろそろ終わりに近づいてきました。これまで、乱筆&長文に長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました!私がこのコラムを書くに至ったのは、反面教師として出来ない私をさらけ出し、読んでくださった皆さんに自信を持っていただきたい、そんな思いからです。帰国子女でもなく、高校時代は英語能力ゼロ。カンニングだけで高校卒業を果たし、英会話を始めたのも成人してからです。初めはNOVAの下から2番目のクラス。英検2級にも落ちまくりましたが、やがてプロとして仕事が出来るようになりました。日本の通訳学校やオーストラリアの大学院で通訳を教える機会もいただきました。私は体育会系の人間ですから、(大学院の)学生には常々、「決して諦めないこと」が大事だと教えていました。これは、通訳中に訳が分からなくなりギブしてしまう、というシチュエーションにも当てはまることですが、学生に伝えたかったのは、通訳の学習はjourneyなんだということです。学習曲線は人によってそれぞれです。成長するスピードは人によって違います。でも誰にでも上昇に向かうカーブがあるからこそ「曲線」と呼ばれるのだと思います。上昇する曲線の頂点は、2年間という短い大学院の間に到達できないかもしれませんが、「学び」は2年間で終わるものではありません。ともすれば卒業試験の合否のことばかりを考えてしまう学生に、長期的な視点をもって継続的に努力してもらいたいと思い、伝えていた言葉です。私も通訳中「もうダメだーわからないー」と諦めそうになることもありますが、グッと堪えて集中し直すように意識しています。仕事がほぼ皆無の今日この頃、毎日少しずつですが通訳の練習をし、スキルが落ちないように努めています。ささやかな脳トレです。出来ない私だけど、仕事では良い通訳をしていきたいと思います。市場が早く戻ることを祈りつつ、今日も家ジムと脳トレに励みます。大学院卒業後の面白い話は、また番外編で!


エバレット千尋

フリーランス通訳。オーストラリアのモナッシュ大学大学院で通訳翻訳の講師を務める傍ら、一年に10回以上日本とオーストラリアを往復し、日豪両国で医療、医薬、金融、IT、その他幅広い分野で活動中。高校時代は、受験に主眼を置いた日本の悪しき英語教育の中で脱落し、英語への関心がゼロに失墜。その後、美術学校時代に一人旅をしたインドで「コミュニケーション」としての英語に目覚める。NOVAやECCで英語の基礎を学び、インタースクールで通訳訓練を受けた後、クイーンズランド大学大学院に留学。日本語通訳翻訳学科での修士課程を経て通訳デビュー。英大手通信会社で社内通訳を経験し、フリーとして独立。2007年にオーストラリアに移住。一年の3分の1を東京で過ごすが、心は関西人。街で関西弁を聞くと、フラっとついて行きそうになる。京都市生まれ。