【第5回】大手を振って中道を行く−できない私の通訳雑談「通訳学校に通うの巻」
あなたのために死ねます
今週はTICADの週でした。そんなTICADでは本会合以外にも多くのサイドイベントが並行でして開催されており、そのうちの一つでお仕事をしていました。「あなたのために死ねます。」これはご一緒した先輩通訳さんからお聞きした言葉です。放送通訳者でもあり、面倒見が良くて素敵な先輩通訳さんなんですが、おしゃべりがこれまた面白い。休憩時間に話題になったのは、出張面白ストーリー。トルコ出張でオフの時間に雑然としたマーケットを探索していると、いきなりトルコの若者が飛び出してきて目の前に立ちはだかり、流暢な日本語で「あなたのために死ねる」と告げられたとのこと。何が彼をそこまで言わしめたのか?実は普通の客引きだったのですが、いきなり目の前に飛び出してきた男性から「死ねる」と告げられたらビックリしちゃいますよね。しかしそこは経験豊富な先輩です。「私には夫も家庭もあるのお〜」とドラマチックな芝居で切り返したそうです。情熱的な男性は「ああそれなら。」とあっさり引き下がったとか。その間全て日本語の会話だったとのこと。中々の言語能力ですよね。この先輩はいつも素晴らしいサポートをしてくださいます。その的確なアドバイスの中には私の中で伝説と化しているものもあり、たまに通訳仲間にも共有して感動を分かち合っています。また機会があればご紹介しますね。
さて、前回のコラムではポジティブ心理学の学会についてお話をしましたが、実はその学会の初日はダブルヘッダーで午前中に別の仕事をしていました。東京だと半日案件を2件入れるっていうのは珍しいことではありませんが、オーストラリアではほとんどありません。その別の仕事でのことですが、ちょっと素敵な人に会いました。お客さんと待ち合わせて訪問先を訪れたときのこと、受付のホールの一角にアジア系の小柄な女性と40代半ばかと思われる男性が立っていました。優しそうな面持ちのその男性には何か独特の雰囲気があり、女性の話に耳を傾けている様子で、足元にはドッグがいました。オーストラリアでも屋内はサービスドッグ以外は入ることはできないのですが、盲導犬になるために訓練中の”trainee”ドッグなどは例外で、屋内外を問わずどこでも入ることができます。生後1年までの幼犬を家庭で受け入れて世話をする里親は、里親中は基本的にパピーと片時も離れず生活をすることが求められます。私が通っているジムのインストラクターも里親をやっていたことがあって、クラスではいつもパピーと一緒にステージに上がり、ウェイトを重りがわりにしてリードを抑えインストラクションをしていました。爆音で音楽が鳴り響く中、最初はパピーも幾分興奮気味ですが10分もすると寝落ちしちゃいます。これがまた愛くるしかった!男性の足元で寝そべっているドッグも、きっとtraineeドッグだと思っていました。
受付で訪問先を告げると、受付嬢が「後ろにいる彼が訪問先のスティーブン」よ、と先ほどの男性の方を指さしました。そうだったんだ、ということで挨拶にいくと、やはり第一印象の通り優しそうな笑顔の人です。少し斜視気味ですが、綺麗な目をしています。挨拶を済ませ握手をしようとした時にはたと気づきました。握手の時、彼が見ていたのは相手の目ではなく、もっと遠くの方なのです。つまりドッグは彼の盲導犬、訓練中のパピーではなくプロのドッグだったのです。それで納得ができました。同僚と話していた時、彼は相手の声に集中してコミュニケーションをしていたんだと。だから遠目で見ても、少し視線の置き方が一般の人とは異なっていたわけです。あくまでも想像ですが、おそらく視力があったこともある方なのでしょう、今も光はぼんやりと見えるようです。
さて、5分くらいすると会議に参加する人たちが4名ほど登場し、いよいよミーティングとなりました。日本側から最初にプレゼンをすることになり、持参したカラー印刷の資料を配り始めたのですが、ここで初めての体験をしたのです。まず、準備した資料の部数が足りず、目の不自由なスティーブンは丁寧に「僕はいいよ」と断ります。プレゼンが始まりますと、今度は通訳として判断しなければならないことが色々と出てきました。「スピーカーの発言を別の言語に置き換えてメッセージとして伝える」ことが通訳の仕事だとすると、スピーカーの言葉で表現されていない視覚的な情報は「通訳」できないわけです。この辺りが通訳者の判断や、各参加者の立場、また会議を取り巻く環境によっても変わってくるとことなのだと思います。
このミーティングは少人数のカジュアルな会議でしたので、私は必要と思われる視覚的な情報は加えて通訳をしました。プレゼン資料には、写真や図が多く含まれていたのですが、例えば、「ここにあるように列車が来ると、この部分がこう出てきてギャップをなくします」という発言であれば、「今ホームの端の部分の写真を見ていて、ホームのエッジからはプレートが出てきています。このプレートは車両が入ってきて停車すると自動的に出てくる仕組みになっており、車両とホーム間のギャップをなくす役目をもっています(英語)」という風に、かなり長く訳しました。日本人のプレゼンターには、視覚的な情報も言葉にして伝えてくれ、とお願いしたのですが、ちょっと難しかったようです。
とはいえ、視覚に障害を持つ人は、視覚があることを前提とする健常者同士のコミュニケーションに慣れっこになっているかもしれませんし、通訳として情報を加えることは不要であったかもしれません。また加えなくても、研ぎ澄まされた想像力で内容を補い、理解なさったかもしれません。不要なことをしない方が、「健常者と差別することなく相手を受け入れることになる」、という考えもあるかもしれません。これはソフト面でのインクルーシブ(社会包摂)の難しいところですよね。物理的に、参加者が多かったり、会議の時間が限られていたり、健常者と障害を持つ人の立場だったり(障害を持つ人がメインの参加者なのか、オブザーバーなのかなど)。そういった色々な状況によって、実際に通訳者がどういった訳をするのかは異なってくると思います。今回は逐次だったので、視覚障害者用のクローズドキャプションのような通訳をしましたが、同通だったら無理な話です。
***
さて、前回はインタースクールでお試しレッスンを受け、入学に至るところまでをおはなししました。インタースクールはご存知の方も多いかと思いますが、かなり老舗の通訳学校です。東京と京都、大阪、そして名古屋や広島、福岡にもスクールがあり、私は地元京都のスクールに入学しました。現在は無くなったと聞きましたが、私が入学したのは通訳・翻訳集中コースです。集中コースはその名の通り、通訳も翻訳も同時に学べるコースで、週に3回、1回あたり4時間の授業が受けられます。(記憶違いだったらごめんなさい。25年も前の話なので。)通常の週2回、2時間のクラスよりもかなりお得なクラスで、通常コースの1.5倍くらいの料金で3倍のコンタクトタイムがあるコースでした。
翻訳の授業は日英、英日の授業があり、残りは通訳の授業でした。東京とその他の地域では通訳コースのレベルの分け方が異なると聞きましたが、関西では通訳コースに至るまでに4段階の専科コースがあり、専科コースを無事終了すると2段階の通訳入門科、そしてその上に2段階の通訳本科がありました。本科IIまで行くと卒業試験兼プロ科入学試験を受ける資格が得られ、半年に1度、名古屋を含む関西一円の本科IIの生徒を対象として大阪で開催されるプロ科の試験が受けられます。私が最初に通っていた集中コースは、この入門科のIとIIを合体させたコースでした。生徒たちの顔ぶれはというと、さすがに昼間に開講されているコースとあって、大半は主婦。あとはフリーター(私)が2、3人混じっているという感じでした。1クラスは約6〜7名でしたが、入門科のIとIIが合体したコースということもあり、生徒のレベルにはかなり幅がありました。もちろん私は一番デキない生徒です。一番優秀な方はご主人が医師で子供も全員医師志望、海外渡航歴も長いという主婦の方でした。この方も後にインタースクールを卒業し、プロや講師として活躍なさっています。
さて通訳学校というところは、「特に何もしていないのに、いつの間にか通訳になっちゃった」という、元々優秀な語学力を持つバイリンガルの人以外は、誰でも一度はくぐった門ではないでしょうか。同時に、誰もが行くのだけれど、そこで教えてもらった細かい内容は、結局忘れちゃってることも多いと思います。私もインタースクールで学んだことを具体的に思い出すことはできません。学校ではこういった授業内容で、先生にはこれを教えてもらい役に立ったとか、このアドバイスを受けて成長したとか、そういった細かいことは記憶に残っていないのです。学校というのは、得てしてそういったものかもしれません。エピソードは覚えていても、結局何を学んだかって覚えていないことが多いと思います。
例えば高校時代を振り返ってみても、学んだ内容は全く覚えていません。唯一覚えているのは授業中のエピソードだけです。例えば、生物のマスダ先生が、「僕の妻の足はめちゃくちゃ綺麗なんでね、ホットパンツ(懐かしい!)で四条河原町(京都随一の繁華街)を闊歩させてやったんだよね」と、どう反応して良いのか分からない自慢をしていたことや、世界史の小辻先生に「世界史はとにかく年号。年号は語呂合わせで覚えなあかん!例えば、イナゴ七匹潰したらプラッシー色になるやろ?イナゴ七匹プラッシーの戦いって覚えるんや」と初回の授業から厳しく指導されたことくらいです。ちなみに、私は今だに「プラッシーの戦い」が何の戦いだったのか良く知りませんが、1757年に発生した戦いだったということは記憶に切り刻まれています。語呂合わせ恐るべし!
またまた横道に逸れましたが、通訳学校でも具体的に指導された内容はほとんど覚えていないということをお伝えしたかったのです。それでも、通訳学校に通った3年間はとても価値があったと思います。通訳学校というのは、「一つの目的のためだけの用意された閉鎖空間に身を置き、同じこと(訳出)を繰り返すことでスキルを高める」ことができる稀な場所だからです。また何より、毎回授業のたびにボロボロになり、それでもまた次の授業に参加することで、精神的に鍛えられる。これも大きな要素だと思います。通訳の練習だけなら自宅で一人でもできるのですが、先生やクラスメートの前で撃沈しつつも諦めずに続けることが後々のスキルアップに繋がるのではないでしょうか。通訳学校の初級レベルに入学して卒業(インタースクールではプロ科進級が擬似的な卒業の位置付け)まで続け、実際に通訳の仕事をしている人は結構少ないように思います。
もちろん、在籍中に通訳の仕事を始めたり、新たなキャリアパスが見つかったりして辞める人や、元々英語能力の向上のため短期間通訳の勉強をしていたという人も多いと思いますが、途中で「自分はデキナイ」と見切りをつけられる方もかなりいると思います。私は、学習曲線は人それぞれなので踏ん張って努力すれば何とかなる。通訳とはそういった「継続は力なり」のスキルだと思っています。
ところで、そういった「根性論」とは別に、通訳学校で学び今でも役に立っている教材があります。一つはインタースクールが用意している「挨拶の通訳」エクササイズ。これは挨拶や会議での決まり文句の文章で、初級レベルの時に毎回宿題として暗記させられました。”Your excellency…, distinguished guests, ladies and gentlemen…” や、”It is my great honor and privilege to…”などといたスピーチの冒頭部分が中心ですが、これを授業のたびに冒頭でエクササイズします。もちろん全てを覚えている訳ではありませんが、「イナゴ七匹プラッシー」のように記憶に深く刻まれているフレーズは、今も会議では大活躍しています。
もう一つとても訓練として効果的だったと思うのが、サイトラの授業です。ただ、サイトラは語り出すと長くなるので次回じっくりお話ししたいと思います。
最後に、通訳学校で記憶に残っているエピソードを二つご紹介します。いずれも翻訳の授業でのことです。翻訳の授業を受けていたのは最初の1年ですから、通い始めてまだ間もない頃のことです。翻訳の授業は、前の週に提出した翻訳が赤ペン修正をグリグリ入れられ返却され、それをベースとして解説や翻訳の良かった点や悪かった点が指摘されて進められます。もちろん、私の翻訳はいつも真っ赤で返却され、原型をとどめないほどでした。
そんなある日、和訳の先生に「エバレットさんは帰国子女ですか?」と尋ねられたのです。あら、私の英語ってそんなに素晴らしいのかしらん。和訳なのに分かるのかな?と思いつつ、「いいえ」と答えると、先生がすかさず「そうですよね。でもたまに帰国子女でいるんですよね、『て、に、を、は』が混乱したような変な日本語を書く人が。なので、エバレットさんもそうなのかなと思って」と、クソミソに言われました。帰国子女ではありませんが、ご指摘に反論の余地はありませんでした。またある時、中間テストの翌週の英訳の授業でのことです、バイリンガルでハーフの翻訳の大先生が乗り込んで来て、ちょっと微妙な日本語で「あなたたちの翻訳はなっとらん!今回は仕方がないからF(不合格)にしなかったけどお、本当はFよF」と、こっぴどく怒られたことがありました。細かくは覚えていませんが、ネイティブの目から見ると、私たちの英訳がひどい「直訳」であって、直訳すぎて意味がdistortされてしまっているということ、そして他動詞が自動詞として使われているケースが散見されるということでした。大先生は「これまで授業で何学んでたんだ?」的な勢いで憤ってられましたが、私たちには先生の怒りと共に、accessやdiscussといった動詞は他動詞のみ、proceedは自動詞なので前置詞を忘れちゃだめという具体的な文法ルールが刷り込まれました。
さて、私は昨日ヘルシンキにやってきました。ムーミンの国です。貧乏旅行なのでエアビーで宿をとったのですがエアビーのアパートに到着して早々、オーナーのおばちゃんが田舎で採ってきたという大量の巨大キノコを見せてくれました。日本では見かけない、おとぎ話に出てきそうな形のキノコばかりです。何でもフィンランドには森が多く、キノコ狩りは国の文化でもあるとか。野生のキノコは専用のブラシで汚れを落とし、傷んだところを切り取って料理します。私も恐る恐るおすそ分けをいただきましたが、毒キノコどころか、野生の立派な「ポッチーニ茸」でした。北欧フィンランドは、もうすっかり秋が訪れています。
次回は通訳学校の授業のお話と、オーストラリアの大学院留学のお話ができればいいな、と思っています。
エバレット千尋
フリーランス通訳。オーストラリアのモナッシュ大学大学院で通訳翻訳の講師を務める傍ら、一年に10回以上日本とオーストラリアを往復し、日豪両国で医療、医薬、金融、IT、その他幅広い分野で活動中。高校時代は、受験に主眼を置いた日本の悪しき英語教育の中で脱落し、英語への関心がゼロに失墜。その後、美術学校時代に一人旅をしたインドで「コミュニケーション」としての英語に目覚める。NOVAやECCで英語の基礎を学び、インタースクールで通訳訓練を受けた後、クイーンズランド大学大学院に留学。日本語通訳翻訳学科での修士課程を経て通訳デビュー。英大手通信会社で社内通訳を経験し、フリーとして独立。2007年にオーストラリアに移住。一年の3分の1を東京で過ごすが、心は関西人。街で関西弁を聞くと、フラっとついて行きそうになる。京都市生まれ。