【第7回】大手を振って中道を行く−できない私の通訳雑談「大学院いきます!の巻」
ごくごく当然の話ですが、オーストラリアは南半球にあります。
先週後ろ髪を引かれつつも心を鬼にし、今年の仕事納めをしてメルボルンに戻ってきました。今年の秋は何かと忙しかったですよね。いつもはもう少し息つく暇があり、繁忙期もちょこちょことオーストラリアに戻ってきたりしているのですが、今年はスケジュールの組み方が不味かったこともあり、また1日だけのヨーロッパでの仕事にかこつけて、1週間以上も滞在して遊んだこともあり、ちゃんと腰を据えてオーストラリアで過ごす時間があまりありませんでした。結局気づいてみれば9月からオーストラリアに戻ってきた期間は3週間ほど。今は娘は日本にいるし、息子も大学生だから長く留守にしていても特に問題はないのですが、私を神と崇めている我が家のおバカなドッグが可哀想です。私が留守の間は寂しさからか、エアビーで泊まっているお客さんに媚を売りまくっています。最近は媚を売りすぎて満足しているのか、数週間留守にすると帰宅しても「OMG!神の降臨やー!メチャうれしー、チョー興奮するー!フガフガフガー」という歓迎のダンスではなく、「あれーお客さんですか?どうもー。いらっしゃいー。よろしくー。」という、初対面の他人のような扱いを受けてしまします。
さて、そんな無事帰宅して水臭いドッグのご挨拶を受けてきた訳ですが、南半球のオーストラリアは夏です。今年は日本でも時々ニュースになっているように、オーストラリアの一部の地域では酷い旱魃が続き、本格的な夏の到来の前から山火事(bush fire)が発生して大きな被害をもたらしています。全身に火傷を負った可哀想なコアラのニュースは日本でも報道されていました。ところで、日本で山火事をいうと、本当に山が燃えているようなイメージがありますが、bush fireというのは文字通り低木だったり森林だったりします。オーストラリアは基本的に平坦な大陸なので、ほとんどが山火事ではなく厳密には森林火災です。この森林火災と言うのはピンとこないかと思いますが一度広がると本当に手に負えない代物のようです。ちょうど10年ほど前にも旱魃の年があり、Black Saturdayと呼ばれる大規模な森林火災が発生し200名近い人が犠牲になったことがありました。森林火災は地震のように突然発生して瞬間的に人命を奪うものではないから逃げる暇があったはずだ、と思われる方もいらっしゃるかとおもいます。でも、ここには津波の被害と少し似た側面があるように思います。当然のことなのですが、火災というのは「移動」します。風が吹けば、風向きと逆の方向に移動していきます。可燃物 (fuelsを燃やしながら移動していきますが、一番火災の先頭 (fire front)が最も温度が高いところです。風に吹かれて細長い焼け跡を残して燃え広がっていった火災だと、その先頭にあたる長方形の短辺の部分が最も温度が高く、その直後の部分は少し温度が下がるわけです。Black Saturdayでも家のベランダから遠方を横切るように燃え広がる火災を見ながら友人と話していた人が、電話中に風向きが変わり、急に火災に飲み込まれてしまったといったような話をニュース出来きました。
先ほど長方形の短辺の話をしましたが、風向きが90度変わると、今度は長辺の部分が燃え広がる先頭の部分に変わり、急速に規模を増して燃え広がり始めるのです。Black Saturday の日は、午前中は40度を超えるような猛暑の日でした。ただ夕方には南風(つまり南極からの風)に変わり (cool change) 温度が下がると予報されていました。今でも当日の午後に洗濯物を取り込むためにベランダに出ると、最初はドライヤーの熱風のように感じられた熱気が、洗濯物を取り込み終えた頃には驚くほど涼しくなったことを覚えています。10度くらい一気に気温が下がった感じでした。ちょうどその頃に森林火災が発生していた地域でも風向きが変わり、多くの人々が不意を疲れてしまったようです。今日は最高気温が43度の予想です。外はドライヤーのような強風が吹き荒れています。
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さて、前回は通訳学校でサイトラに励んだというお話をしました。改めて冷静に考えると、当時サイトラに励んでいたのは今のようにインターネットやYouTubeもなく、通訳の練習をする材料といえば英語新聞や雑誌の購読やBSの英語放送を聞くくらいしかなかったからだと思います。今のようにpodcastや動画で質の高いスピーチやパネルなどの視聴が出来ていたら、サイトラに割いていた時間は遥かに短かったかも知れません。ただ、サイトラにしろシャドウイングや通訳の練習にしろ、アプローチは大雑把に言うと二つしかなく、とにかく数をこなすか、完璧な訳出ができるまでとことん同じマテリアルで練習するかということに尽きると思っています。この点については、次回以降の回に譲るとして、今回はオーストラリアへの留学のお話をしたいと思います。
私が日本で通っていた通訳学校はインタースクールですが、関西のインタースクールは英語専科I- IV、入門科I&II、本科I&IIという構成になっていました。英語専科は英語の基礎能力を高めることが中心で、通訳の入門科で逐次のスキルを学び、本科で同通を勉強するというスタイルでした。半年間のコースの最後に進級判定が行われますが、私は本科IIまで特に問題もなくスムーズに進級できました。誤解がないように言っておきますが、通訳能力は惨憺たるものでした。もとより、オリジナルの英語が何言ってるかほとんど理解できていないのですから、正確な訳出ができるわけがありません。ただ、出席率は常にトップで、サイトラは準備万端だったことが奏功していたのだと思います。
なんやかやで、本科IIのクラスになりますと、「プロ科」の試験を受ける権利が得られます。東京や大阪では事情が異なると思いますが、インタースクール京都校に通っていた私たちは、通訳の仕事をするなら、何がなんでもこの「プロ科」の試験に合格しなければならない、合格しなければ仕事はできないと思っていました。ただ、このプロ科の試験がかなりの難関でした。半期に一度、西日本一円の本科IIの生徒、20名強がこの試験を受け、受かるのは毎回3〜4名だったと思います。試験は逐次と同通の二段階で行われ、最初の逐次の試験に合格したものだけが、1週間後(だったような記憶です)の同通の試験に招かれ、2段回目の試験に挑むというプロセスでした。逐次の試験は3名の生徒が1組となり、皆がテープから流れるスピーチを聞いて、テープが止められた後に名前を呼ばれた者が訳出をします。チャンスは1度きり。1度目に名前が呼ばれなければ、2つ目のセクションを訳すことになる可能性は五分五分。2度目に当たらなければ、3度目は必ず訳出しなければならないのです。試験の緊張感は半端ありませんでした。
本科IIまでは出席率とサイトラの準備だけで順調にきた私も、ここで大きな壁にぶつかりました。全く持って歯が立たないのです。試験の場にいるだけで緊張が半端なく、ただでさえデキナイのにいつにも増してボロボロとなり、毎回、行く前から帰りたい(!)気持ちにいっぱいでした。そんな中で、何かを変えなくちゃならない、英語力を飛躍的に伸ばさないとどうにもならないと強く思うようになりました。その頃から英語にどっぷり浸かるために留学をしたいと考えるようになりました。英語力を伸ばしたいという気持ちもありましたが、学歴を得たいという密かな望みもありました。実は私は大卒ではありません。高校の時に半分イジメ的なこともあったり、中卒のヤンキー仲間とつるんでいる方が楽しかったりで、登校拒否(ただのサボりとも言う)をしている期間が長かったのです。高三でやっと勉強を再開した時には内申書は惨憺たる状態で、学力も共通テストを受けられるレベルではありませんでした。そこで、比較的偏差値が高かった現代国語だけで入学できる短大に入りました。ただ私が入った短大は、「良妻賢母」を育てるためにあるような学校で、全く持って興味を持つことができず、半年も持たずに中退してしまったのです。短大を中退したのは正しい選択だったと思うのですが、最初からちゃんと親を説得して、浪人してでも最初から大学に行っとけば良かったと思います。でも後悔先に立たずです。そんなこともあり、学歴には常に少しだけ劣等感があったのです。
そんな時に雑誌でオーストラリアのクィーンズランド大学にある通訳・翻訳コースの存在を知りました。このコースは修士課程の2年間のコースで、正に私が望んでいた「通訳」という専門領域において英語にどっぷり浸かる機会を与えてくれるコースだと思えました。ただ問題があります。それはこのコースが修士課程で、入学資格として基本的に大卒以上の学歴が必要となるからです。私は大学はおろか短大も終了していません。短大中退後に美術の専門学校を終了しましたが、大卒には足元にも及びません。そこで、修士過程として単位はもらえないとしても聴講生的な身分で入学できないものかと思い、入学申請の窓口にメールで問い合わせて事情を説明しました。すると、なんとも寛容なことに、「aptitude testなるものがあり、入学希望者はこの試験を受け、その結果によって入学可否が判定される」という回答が来ました。まさかこんな風に試験を受けることが可能などと考えてもいなかった私は、天にも登るような気持ちで入学申請をし、受験の設定をしました。
今は恐らく変わっているかと思いますが、当時の受験規則では個人的に試験を受ける場合、大学教授(准教授でも良かったかも)が試験監督となり、その立ち合いのもとで試験を受けることになっていました。試験の内容は受験者には全く知らされず、私の記憶が正しければ、試験監督に直接試験用のマテリアルが送られ、試験終了後にはその場で封印されて試験監督から大学に郵送されたと思います。
私は大学に行っていないので昔の大学の恩師など、母校の先生に頼むことはできません。そこで、大学で英語を教えているご近所のアメリカ人に試験監督をお願いしました。「教授」という肩書は、それはそれは大変な実績がなければ得られないものと思いますが、少なくとも当時の私の周りには、日本での滞在期間が長く、〇〇大学で教授として英語を教えている外国人が結構いました。彼らはもちろん素晴らしい頭脳の持ち主でしたが、同時に、英会話スクールで教えていたら日本人の彼女ができて日本に居座ることになったという経歴の持ち主も多く、「教授」の肩書は、ちょっと早い者勝ちの側面もあったと思います。
そんなご近所の知り合いにお願いして受けた試験ですが、はっきり言ってボロボロでした。試験の内容は大半が英語の文章を英語(あるいは日本語の文章を日本語で)で要約するといったモノリンガル形式で言語能力や資質を確認するようなものでしたが、とにかく「出来た!」と思えるような箇所は一つもなく、一つのセクションが終わる毎に撃沈しました。回答した内容は目の前で封印され、まったく改竄の余地は与えられません。「ご近所のよしみ」による甘えは許されませんでした。
そんなこんなで試験を受け数週間経った頃、大学から連絡がありました。なんと「お前は大学を卒業していないじゃないか、卒業した大学を述べよ」的な問い合わせなのです。頭のてっぺんから爪先まで血の気が引きました。こちらは一番最初に連絡をした時に学士を持っていないことを伝え、それでもなんらかの形で受講できないかと尋ねたつもりでしたし、実際に送信済みのメールを見てもそのような内容になっています。改めて、最初のメールを引用して状況を説明し、対応を検討してもらうことにしました。
元々ダメもとで問い合わせたわけですし、少しぬか喜びをしてしまったのは残念でしたが、仕方ないやという気持ちもありました。
返信をしてからは特に大学から連絡がなく、半分諦めたころのことです。インタースクールで授業を受けていると、受付のお姉さんが教室に入ってきて自宅から緊急の電話がかかっていると教えられました。緊急の電話を受ける理由は全く思い浮かばなかったので、訝しく思いつつも電話をとると、「You got it! You are going to the UQ!」という主人の歓喜の声が聞こえてきました。なんと修士課程として入学が認められたのです。まるでドラマのような展開でした。京都校の受付で歓喜の雄叫びを上げ、クラスメートと先生にも一緒に祝ってもらいました。まるでオリンピックでメダルを獲得したような気分でした。
なぜ入学が認められたのか。入学許可通知では「学部長の許可が得られた」と書いてありましたが、実際のところなぜ許可されたのかは不明です。卒業後に先生から「あなたを受け入れることになった時は、大丈夫だろうかと本当に不安だった」とは言われましたが、なぜ受け入れることになったのかは教えてもらえませんでした。特に尋ねもしなかったからかも知れませんが、理由は今持って謎です。入学試験の結果が凄まじく良かったのかも知れませんが、その可能性は低いと思います。恐らく色々と大人の事情があったんじゃないかなと思います。
このコラムを書き終えている今、2019年もあと数時間で暮れようとしています。「なんちゃって」おせちの用意も整いました。西京の白味噌も手に入れたので、京風お雑煮も食べる予定です。
2020年は大学院留学の中身からお話したいと思います。
エバレット千尋
フリーランス通訳。オーストラリアのモナッシュ大学大学院で通訳翻訳の講師を務める傍ら、一年に10回以上日本とオーストラリアを往復し、日豪両国で医療、医薬、金融、IT、その他幅広い分野で活動中。高校時代は、受験に主眼を置いた日本の悪しき英語教育の中で脱落し、英語への関心がゼロに失墜。その後、美術学校時代に一人旅をしたインドで「コミュニケーション」としての英語に目覚める。NOVAやECCで英語の基礎を学び、インタースクールで通訳訓練を受けた後、クイーンズランド大学大学院に留学。日本語通訳翻訳学科での修士課程を経て通訳デビュー。英大手通信会社で社内通訳を経験し、フリーとして独立。2007年にオーストラリアに移住。一年の3分の1を東京で過ごすが、心は関西人。街で関西弁を聞くと、フラっとついて行きそうになる。京都市生まれ。