【第8回】大手を振って中道を行く−できない私の通訳雑談「大学院でサバイバル!の巻①」

新型コロナウイルス 、大変な状況になっています。フリーランスの方々は皆同じだと思いますが、2月半ばから3月にかけての普段なら「うれしい悲鳴♪」のミニ繁忙期が、キャンセルに次ぐキャンセルで、あっという間に超スーパー閑古鳥。フリーランスという看板を抱えた失業者にとなってしまいました。

さて、前回このコラムを書いたのは2019年の暮れでした。それからお正月がやって来て、瞬く間に去り、「行く前から帰りたい」心を引き摺りながら家族サービス(旦那サービス)のためサバイバルキャンプに行き、早朝から重たいアイスボックス(オーストラリアではEskyといいます)を動かした拍子にぎっくり腰になったり、初めて聞いたコアラの声に驚愕したりしているうちに、クリスマス休暇は終わり、今や既に今年3回目の来日中です。

巷は新型コロナウイルス で持ち切りですが、コロナが表舞台に登場する前、1月の半ばに今年第一回目の帰京をした時は、まだまだ周辺の人からオーストラリアの森林火災やコアラの心配をされました。日本でもかなりニュースになっていた様ですし、火傷の痛みで泣き叫ぶコアラの姿は、世界中の人たちの涙を誘いました。今では既に「そういや、そんなこともあったよね」的な感じですが、私たちがキャンプに出かけた1月初旬はまだまだ多くの主要道路が閉鎖されていたり、風向きによっては森林火災の地方からPM2.5が大量に流れこんできて息苦しさを感じるなど、生活のどこかで常に、終わりの見えない火事の存在がありました。

こんな山火事真っ盛りの時期でしたから、密かにサバイバルキャンプもキャンセルという流れにならないかと期待していましたが、どっこい甘かった。うちの旦那はキャンプ好きです。それもケチケチキャンプ。オーストラリアでのキャンプというと、スタイルには色々あって、巨大キャラバンでキャンプサイトに乗り付けて長期滞在するというパターンが多い様に思います。こういったキャラバンでやってくる家族は、テレビや冷蔵庫、家族全員分の自転車など、普段の生活をそのまま民営や公営のキャンプサイトに持ち込みます。キャンプサイトはシャワーやキッチンなども充実していて、快適さを失うことなく自然と楽しめます。より若い世代のバックパッカーなどは、camper vanという後部座席がそのままベッドになる様なバンも人気です。こういったキャラバンやキャンピングバンはレンタルも可能です。私たちはこういったバンを友人から借りました。もちろん、車でアクセスできない国立公園内などをトレッキングする時は、昔ながらのテントや寝袋を担いで移動し、川の水を沸かしてキャンプします。トイレはもちろん蓋を開けることが恐ろしい、洋式ぽっとん便所です。またオーストラリア独特のキャンプ用具で、swagという一人用ベッド兼小型テントもあります。これはswagmanという19世紀後半ごろに地方の農場を渡り歩いて生活していた日雇い労働者たちのことで、文字通りswagを担いて気ままな野宿暮らしをしていた人々のことです。こういった自然の中で自由に生きる風来坊的な精神は、国歌よりも国民に親しまれているWaltzing Matildaという歌の中でも歌われていて、これはオーストラリア人のideosyncrasyを象徴している様な歌だと思います(歌詞もめちゃオージー過ぎて訳せません!)。私たちのキャンプはいつも、可能な限り無料、あるいは極貧キャンプ場でキャンプする(つまりトイレは洋式ぽっとん、シャワーなしキ、ッチンなし)。炊事当番の私にとっては毎食が格闘です。今回キャンプをした時に、ハイティーンの息子は一人でswagで寝ていました。私たちのキャンプサイトはユーカリの木(gum treeといいます)に囲まれていたのですが、特にコアラが好むManna Gumというユーカリの木がありました。夕方になると木の上の方から「ギャーグフグフ」という奇声がするので見上げてみると、なんとコアラがいるではありませんか。コアラはこちらでも珍しく、ちょっと都市部を外れるとそこら辺をウロウロしているカンガルーとは話が違います。発見したら超ラッキーって感じです。その日の夜、明け方3時ごろでしょうか、静まりかえったキャンプ場の闇の中で何か奇妙な音が聞こえてくるのです。ちょうど豚かイノシシのような「フガフガフガフガ」いう声です。フガフガはキャンパーバンの前方を横切り、息子のswagの周辺で一時停止して暫くフガフガし(かわいそうに)、またフガフガしながら動き出して、どこかに消えていきました。オーストラリアに熊はいないし、大型の肉食獣もいないので特に心配はしませんでしたが、明らかに野生の何者かが暗闇の中を徘徊していたのです。恐ろしい。朝になって、「あのフガフガを聞いたか」と主人に尋ねると、「あーあれはコアラだ。そして自分はコアラは嫌いである」とのことでした。かわいい面持ちのコアラですが、鳴き声はすごいのです。まるで豚ちゃんです。そんなことを学んだ今年のお正月でした。

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さて、毎回どんどん長くなって来ている前置きはこれくらいにして、本題に入りたいと思います。

前回は大学院に潜り込んだお話をしました。今回は大学院での学習を中心にお話ししたいと思います。

オーストラリアの学年 school yearは2月に始まり、クリスマス前の12月20日頃に終了します。とはいっても、これは小中高校 (primary and secondary/ high school)の話で、大学は2月末に始まり11月初旬に終了します。

大学院への入学は決まりましたが、その後は諸々の手続きが必要でした。まず永住権の取得です。オーストラリアの大学は基本的に公立であり、永住権保有者を含む自国民と海外留学生 (international students)の間には、授業料に大きな差が設けられており、永住権をとることで大きな費用削減になるのです。今でこそ国民でもかなり高額な授業料となりますが、当時は永住権さえあれば年間の授業料が40〜50万円程度に抑えられました。ご想像に難くないと思いますが、永住権をとるには色々な書類を集めなければなりません。一番ドキドキしたのが「犯罪経歴証明書」です。特に前科者だという認識はありませんが、人生を振り返ると完全に100%クリーンだったというわけでもありません。犯罪経歴証明書は警察に申請して発行してもらいます。ただし、発行された書類は封筒に入れられ厳格に封印されていて、開封できるのは提出先だけになっています。途中で改竄できないのです。人生ずっと潔白でやって来た人でも巡回中のパトカーなんかを見るとドキドキしますよね。「何もしてません!」って言いたくなりますよね。中学時代ヤンキーだった私は尚更です。犯罪経歴証明書を受け取った日、デスクランプに封筒をかざして目を凝らし、ぼんやりと透けて見えた「記載事項なし」に狂喜したことを覚えています。

犯罪経歴証明書を含め、必要な書類を取り寄せてバタバタしているうちに、渡航の期日となりました。

私の大学はオーストラリアの北西部にあるクイーンズランド州の州都ブリスベンにあります。ブリスベンは、オーストラリア地図を上から見ると、一番右の出っ張ったところにある街です。亜熱帯にあるため、冬でもそれほど寒くありません。夏の暑さは東京や京都と同じくらいです。

そんなブリスベンには当時まだ2歳だった娘と一緒に母娘留学をしました。旦那は日本で家を守り、せっせと仕事をして仕送りすることになりました。

さて子連れ留学というのは、結構大変です。まず、学生ですから当然お金がありません。貯金もほとんどが授業料に消えてしまいます。

そこでオーストラリアに入国して最初にしなければならなかったのが、社会福祉手当の申請です。児童手当や住宅手当など、諸々の手当の受給をCentrelinkという福祉事務所に申請しに行きました。ただ、やり方も色々あるのかと思いますが、私はあまり分かっていなくて、ほぼ皆無に近いような金額しかゲットできませんでした(ただ、2年目には保育所にかかる費用が一部負担されるようになりましたが。)

もう一つ大変だったのが保育所の確保です。保育所は日本にいる時から探し始めたのですが、大学に2つ用意してある保育施設は全て満杯で、100人以上が順番待ちリスト入っているとのことでした。また、アパートを探そうにも、保育所の周辺か、大学への通学途中に保育所があることが前提になるので、まず保育所を確保しなければ次の行動に移れないのです。保育所は、日本と同じで本当に枯渇していました。探し始めたのが遅かったのかも知れませんが、大学近郊の町どころか、かなり範囲を広げて探しても空きはありません。やっと見つけたのは、Taringaという町の保育所でした。Taringaは大学からバスを乗り継ぐか、歩いて20分くらいのIndooroopilly Shopping Centreにあるバスターミナルまで行き、そこからバスで30分くらいかかりました。

保育所を確保すると次はアパートの確保でした。これも単身で普通に留学するとハウスシェアができたり、ハウスシェアだと家具も既に用意してあったりで、かなりコストが削減できます。ただ、これが子連れになるとそうはいかない。そして現地に入ったのが2月半ばで既に出遅れ組だったため、物件自体が非常に少なくなっていました。残っている物件は割高だったり、バス停や駅から遠かったり、売れ残り感満載の物件ばかりでした。主人のお母さんがメルボルンから出て来て、幼い娘と私のアパート探しを手伝ってくれたのですが、炎天下の中、幼い娘をなだめながら代理店や物件の見学に歩き回るのは、体育会系の私にとってもかなりキツい作業でした。それでもなんとか数日で家具付きのアパートを見つけ、福祉手当の申請も完了できたのは、(元看護師で)天使のようのお義母さんのおかげだと思います。子連れで家族とも離れ、友人もいない未知の場所で新たな生活を始めるのは、誰にとってもストレスの高い経験です。当時は携帯電話も普及していませんでしたし(あっても学生には手が届かない高級品)、インターネットは「ギーキーツーーー」っていう、電話回線ベースの超スローなものしかありませんでした。当然SNSもありません。モラルサポートが欲しくなっても、日本にいる主人とは国際電話で話すしかないのです。おまけに最初は住所不定でしたから固定電話もなく、あらゆる通信はすべて公衆電話に頼るしかありませんでした。寂しい時は公衆電話に通い、カチャカチャと落ちていくコインの音を聞きながら、ほんの2、3分しか聞けない主人の声に癒されていたことを思い出します。

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さあ、生活の面で大学に行く準備も整い、いよいよ新学期が始まりました。

実際の学期が始まる前、まず前もって行われるのがオリエンテーションです。これは新入生全員を集めて行われる説明会で、学生サービスや単位などなどが話されました(と思います)。ここでやっと「大学に来たんだ!学生生活が始まるんだ!」と、ワクワクした気持ちになれるのはいいのですが、この説明会の内容が全くもってわかりませんでした。大学に関連することを言っているのですが、英語自体も、言っていることも全くもってわからないのです。あまりにも分からないので、寝てしまいそうになりました。分かったのは、「今すぐにしなければ退学になるような喫緊の問題はない」ということでした。もはや完全に脳味噌が情報を拒否している状態でした。逐次通訳でたまにある事象と同じです。そんな脳味噌が麻痺状態ではありましたが、一応修士課程でコースの数もそれほど多くなく、コース名も分かっているので特に大きな問題にはなりませんでした。

修士課程をとったことのある方はご存知かと思いますが、修士課程のコースというのはかなり人数が絞られています。私が教えていたメルボルンの某大学でも、日本語の通訳コースに入学してくる修士課程の学生は4〜8人程度で、かなり少数精鋭な感じです。ただ私が入学した年は日本語通訳翻訳学科がものすごく人気だったようで、当初は19人も学生がいました。はっきりと覚えていませんが、現地の学生は永住権を持つ私を入れて4分の1くらいだったと思います。残りは皆留学生でした。

通訳学校でもそうですが、19人もいると通訳の授業は成り立たないので、私たちの学年は2つのグループに分けられ、授業はすべて各グループごと受けることになっていました。私たちのグループには、私のちょうど弟と同い年の男子生徒が1人、少し年上の既婚者の男性が一人、パースからやって来た40歳くらいの4人の子持ちの女性が1人、定年間際で退職し、夢だった通訳になるためにやって来たという高校の元英語教師の女性が1人、ブリスベン在住の日本語教師の女性が1人、元シティバンクの銀行マンだった女性が1人、バイリンガルの女子が2人、その他もろもろといった感じで、年齢やバックグラウンドの面では非常に多様性に富んでいました。ただ19人も学生がいる中で、英語ネイティブの学生は1人、男性は2人だけと、圧倒的に日本人女性が中心だったのは、ある意味、実際の通訳の世界の縮図のようなものだったのかもしれません。

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こうして大学の授業が始まりましたが、基本的に授業は「言語能力はあるが、通訳訓練は受けたことがない学生」ということを前提に設計されています。ですから、いきなり通訳をするのではなく、「一つの言語で理解し、もう一方の言語に変換し、二つ目の言語でアウトプットする」という通訳のプロセスを一つ一つ紐解いていく形で進められます。つまり最初の半年間は、通訳理論や翻訳理論、現代オーストラリア論、速読、スピーチ・ワークショップなどが中心で、実際に言語を”transfer”する授業は、翻訳(母国語の訳出のみ)に限定されていました。

通訳理論や翻訳理論では通訳や翻訳の歴史、各時代に優勢だった通・翻訳のスタイルなどを学びました。どちらも同じようなアプローチでしたが、翻訳の方が理論的にコテコテだった印象があります。いずれにせよ落ちこぼれの私には、この理論の授業、特にやる気ゼロだったエッセイの提出などは、苦痛以外の何ものでもありませんでした。

こういった理論の授業に加え、日本から来た学生は現代のオーストラリアを知らなければならないということで、学部の生徒に混じり「現代オーストラリア論」の授業を受けさせられました。こちらは学部の授業(つまり10代のお子ちゃまが対象)ですから、講師も飽きさせないようにするためか躍動感のある話し方で、ビジュアル素材も豊富に使われ、大講堂での授業でもスッと頭に入ってくる楽しいものでした。例えば、今日のテーマは”Big Angst”についてだとか、”Aussie Battler”についてだとか、毎回キャッチーなお題目が取り上げられ、そのテーマに隠される現代社会の心理だとか、この社会心理を背景とする政治的状況などが議論されていきました。ちょうど当時は、左派の労働党が敗北し、その後11年の長期政権となった保守派の自由党政権が誕生した直後でしたし、資源州であるクィーンズランド州では極右のポーリン・ハンセンが誕生するなど、政治が大きく動いていた時期だったのです。そんな中で、この政治的変動をもたらした背景である移民問題や国民の心理などを外国人として学ぶことは、とても新鮮でしたし、正に時期を得ていたと思います。

このような理論の授業に加え、もう一歩踏み出して通訳実践に近いと思われた授業がスピーチの授業とリーディング(速読)の授業でした。このスピーチの授業は、今思い出しても悪夢にうなされそうになる、私が世界中で一番嫌いな授業だったのですが、前置きが長かったため、その内容は次回に委ねたいと思います。

次回は前置きなし(か、ほとんどなし)でいきなり本文から始めることをお約束し、今回はここまでにしたいと思います。

手洗い、手指消毒に励み、コロナにかからないようお過ごしください。


エバレット千尋

フリーランス通訳。オーストラリアのモナッシュ大学大学院で通訳翻訳の講師を務める傍ら、一年に10回以上日本とオーストラリアを往復し、日豪両国で医療、医薬、金融、IT、その他幅広い分野で活動中。高校時代は、受験に主眼を置いた日本の悪しき英語教育の中で脱落し、英語への関心がゼロに失墜。その後、美術学校時代に一人旅をしたインドで「コミュニケーション」としての英語に目覚める。NOVAやECCで英語の基礎を学び、インタースクールで通訳訓練を受けた後、クイーンズランド大学大学院に留学。日本語通訳翻訳学科での修士課程を経て通訳デビュー。英大手通信会社で社内通訳を経験し、フリーとして独立。2007年にオーストラリアに移住。一年の3分の1を東京で過ごすが、心は関西人。街で関西弁を聞くと、フラっとついて行きそうになる。京都市生まれ。