【第2回】欧州通勉事情「ジェネリックの授業(言語別でない授業内容―トピックや演習について)」
皆さん、こんにちは。イギリス在住通訳者の平松里英です。この連載では通訳仲間の坂井裕美さんと交代で、毎月コラムを執筆させていただいており、今回は私の担当となります。前回は第一回ということで、修士課程会議通訳科のカリキュラムを坂井さんから紹介してもらいました。
前回も触れましたが、私は会議通訳科ではなく、通訳科を専攻しましたが、この二つのコースの違いは、ともに6つあるモジュールのうち、一つだけです。通訳科では、会議通訳科と異なり、PSI(公共サービス通訳)のモジュールを選択します。オプションが司法と医療の二つあり、そのうちの一つを選択します。
今回は、上記修士課程の授業の中でも、ジェネリック、言語に特化していない多言語対象の授業に関して、すべてを網羅することは不可能ですが、いくつか説明しようと思います。
1.「意味の理論」:理論の重要性
通訳理論の授業の初めに、通訳理論を学ぶ意味・重要性についてディスカッションします。学生の中から様々な意見が出され、それについて議論を進めていきます。通訳学に限ったことではありませんが(イギリスの)大学では理論が重視されています。理論をともなって初めて学位であるのはもちろん、包括的な視点とアプローチを持っていること、その学問の歴史・変遷をまったく知らずして、大学・学問とは言えない。
大学の授業で通訳理論は必修でしたが、私は学者ではないので、そこまで詳しく通訳理論について議論することはできませんが、欧州の大学の通訳学の世界で、セレスコビッチと言ったら知らない人はいないでしょう。日本でピアノを習った人なら(バイエルや)ハノン、ソルフェージュを知らない人がいない(知らない人は潜り)というのと同じくらい、通訳理論としては古典です。欧州で「通訳とは何ぞや」と考えたとき、その根底に流れている考え方、大前提と言ってもいいと思います。
ご存知ない方のために、少々無理を感じつつ要約させていただくと、「意味の理論」とは、ダニッツァ・セレスコビッチが通訳研究の草分けとなる論文を書き、パリにあるESIT(l’Ecole Supérieure d’Interprètes et de Traducteurs)の通訳理論の基礎となったもので、「『通訳者がスピーチを聴取して理解するとは、非言語的な意味を捉えることであり、別の言語に訳すときは、捉えた意味をその言語の約束事に従って言語化することである。』と定義しました」とあります。(出典:東京外国語大学出版会 ベルジュロ伊藤博美、鶴田知佳子、内藤稔共著『よくわかる逐次通訳』2009年)
このコースに入るまでは通訳理論については、まったくと言っていいほど知りませんでした。ですが、会議通訳者がどのようにしてこの世の中に登場したのか(これはとくに理論ではないですが、歴史的側面です)、主流の考え方、通訳理論の用語や各種概念など、どれも押さえておいて損はないものでした。ただ、修士論文は書いていません。私は昔、すでにメディアで人文学修士(Master of Arts)を取っていたので、人文学でダブルマスターを取ろうと思ってはいなかったのでMasterではなくDiplomaまででコースを修了しました。なので、どちらかというと、理論や研究に関しては、少々不完全燃焼の感があります。
「じゃあ、今からでもやれば?」という声が聞こえてきそうですが、具体的に検討してみたものの、今のままでは仕事と両立するのが難しく、むしろ非現実的であるという結論に達しました。先々、もしまたチャンスがあれば、タイミングが整えば、研究活動を進めてみたいと思っています。
2.ノートテイキングで妥協できないルール
通訳用のノートを取る際、指導されることとして、主語がノートの左側、真ん中あたりに動詞、右側に行くほど目的語や補語となり、起点言語の英語(あるいは他の欧州言語)の語順でノートをとる演習をします。皆さんもご存知のように、横方向に進めるのではなく、できるだけ縦に進めるよう指導されます。効果的に星印やハート印、自分のオリジナルの記号などを駆使しながら通訳の補助となるノートを取っていくわけですが、下に(一段ずつ)ずれながら取り進めていくので、斜めに書き進めていくような感じです。
逐次通訳の授業で、ノートを取ってはいけない記憶だけを頼りに行う練習をしたあと、それに続くステップとしてノートテイキングをしても良い通訳の段階に移ります。内容も長めになり、話の構造も徐々に複雑・難解になっていきます。この頃に、ノートの取り方についてコースリーダーから「妥協できない」ルールがあると言われたのを覚えています。
「妥協できない」と言い渡されたルール、それは、ノートの左側に1インチ幅ほどのマージンを作ること。この部分には、リンクワーズやキーワードなどを書けと言われました。しかし、このマージン、私はなかなか使いこなせていません。私だけかもしれませんが、特に日本語が起点言語のときは、このルールに沿ってノートをまとめるのがやりづらいのです…。
ノートは 1.画数が少なく、2.自分にとって一目で分かる この二つを基準に英語だったり日本語だったりミックスで取っていますが、元の発言の特定の単語や熟語を、できるだけ対象的に、アウトプットに反映させて訳出したい部分は、対象言語ではなく起点言語でノートを取るのですが、何度やっても、いま一つこのマージンが使いこなせていない。日本語でも、この「妥協できないルール」は通用するものなのか、いつか他の方のご意見をぜひ聞いてみたいと思っています。
3.数字と記憶(WM)の関係(記憶術)
ジェネリックの授業では、記憶術(Mnemonics)を使った通訳プロセスとワーキングメモリ(作業記憶)との関係についても取り上げられます。記憶術自体は通訳に特化したスキルではありませんが、例えば、発言内容・要点を頭のなかで部屋をイメージ化し、アウトプット(訳出)する際に役立てるというもの。
また、ワーキングメモリをできるだけ効率よく使用する、メモリをできるだけ開放して通訳できるようにする、つまりメモリを圧迫しないためには、普段から中期または長期記憶を増やして(長期記憶に移行して)、通訳時の作業記憶の負荷を軽減する努力が大切だということも議論されます。これに関しては、同時通訳の際の情報処理、ダニエル・ジルのEffort Modelにも関連付けて、通訳する際の様々な負荷とキャパシティについても考察が行われます。
もう一点、ワーキングメモリ、つまり作業記憶に関連して。コンピュータのワーキングメモリと似ていますが、短期的な記憶をする脳内処理能力、情報を一時的に保ちながら操作するためのキャパシティの話です。数字は聞いたままでは覚えられる量が多くなく、せいぜい7つか8つであることを実験後に伝えられます。だからこそ、関連付けて覚えるように習慣づけることが重要であること、その上で演習を行います。
4.キング牧師のスピーチとノンバーバルコミュニケーション
皆さんもご存知かと思いますが、コミュニケーションには言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションがあります。通訳では言語的コミュニケーションのみに焦点が当てられがちですが、非言語的コミュニケーションについて認識しておくべきことを取り上げています。例えば、非言語コミュニケーションにはどんなものがあり(例えば、ジェスチャーなど)通訳の際にまず自分ならどう処理するか、またブースからなのか対面なのかによって異なる解決方法が考えられるため、これらについても授業内でディスカッションが行われます。
ディスカッション以外にも、マーチン・ルーサー・キング・Jrなどスピーチの名手として知られる人たちのスピーチ素材を使って、通訳演習ではなく、スピーチを「再現する」という演習も行います。これには、最初は戸惑う人がほとんどで、言葉だけではなく、彼らのスピーチの名スピーチたる素晴らしさを損なうことなく通訳することの難しさと重要性が提起されます。学生がこれまで考えたことがなかったであろう角度や側面に光を当てながら、各自で視野を広めたり、見聞を深める努力の必要性を認識させられます。
このように、ジェネリックの授業では、通訳に直接的に関係する事柄はもちろん、一見あまり関係がないかのように思われがちなことでも本当は大きく関連していることや、間接的に関連していることに気づかされる良い機会となります。そういった貴重な機会を提供したり、多言語の学生たち、つまり将来の通訳仲間たちとこれらについてディスカッションしたり、演習を一緒に行ったりしていくなかで、様々なことがはぐくまれていきました。個人的には、こういったことこそ、大学のコースにおける授業や活動の醍醐味ではなかったかと、実感しています。
理論を勉強してよかったことは、通訳という仕事をさまざまな新しい角度から見つめる機会になること、世界で行われている研究活動とその 潮流の一端を垣間見ることができること、そして業界について体系的な勉強とアプローチが可能になることです。ややもすると「群盲象を撫ず」に落ちり入りかねない仕事なだけに、そのリスクを軽減し、独りよがりにならず、客観的・包括的な視野を持ち、造詣を深めることの重要性を心得て習慣とする。そのきっかけとなったという意味で、非常に大きな意味がありました。
とくに研究職に就かずとも、通訳という生業でスキルやキャリアを追及すると同時に、通訳理論・研究も自分の中に取り込んでいくことで、あらためて認識させられることは多く、仕事に対する考え方や姿勢、クライアントに対する姿勢(Client Education)といった面でも、自身のハンドリングの仕方に変化がもたらされ、好影響が期待できると思います。
それは、自らの内面の変化からおのずと生まれる気付きや心がけ、そしてそのような変化や成長から生まれる関係性の変化や発信内容(コンテンツの質)の変化を通して、ひいては業界全体の変化へとつながっていく可能性を意味します。対外的にも、通訳という職業・業界に対するリスペクトが増大したり、ゆくゆくは他業種・業界からの見方、世間一般の認識も変わってくる、と考えています。
次回は、再び坂井裕美さんの担当回となります。お楽しみに!
証券会社社内翻訳職、専業主婦業を経てフリーランス通訳者に。好きな通訳分野はIR、エネルギー、インフラ、行政、医療・医薬品、舞台芸術。ファッションと中国語の学位も保有。イギリス生活は通算17年。イギリス人の夫との間に1男2女あり。
北アイルランドで国際メディア研究修士課程修了後、日本の外資系企業の社内およびテレビ通販の生放送主任通訳者を経て、フリーランスの通訳者に。2007年からロンドンを拠点に活動。得意分野はテレビやラジオなどメディア。その他、好きな分野はIT、行政、司法、軍事・防衛。1男1女(双子)の母。