【第2回】フランスとレイシズム「アバヤ・パニック」

みなさま、こんにちは。フランスにおけるレイシズム(人種差別)について論じる本連載。二回目となる今回は、去る9月にこの国メディアで大きな話題となった「アバヤ」(「アバーヤ」とも表記される)について。以下、本文です。


 発端は、秋からの新学期が始まる直前、教育相ガブリエル・アタルが発表した政府方針だ。それによると、本年9月から全公立学校においてアバヤ(主にアラビア半島地域で女性たちが着用する、全身を覆うコート状の衣装)の着用が禁止される。教育相本人の言によると、今学期に学校に戻った全国の中高生徒およそ570万人のうち、この通達を受けてなおアバヤを身につけて登校した生徒は298人で、そのなかの67人が着替えることを拒否したという。この国では何度目かとなるイスラム教的(とみなされた)衣装を禁止することの是非について、各メディアでは大きな議論が沸き起こった。筆者はこれをレイシズムの一形態であるイスラモフォビア(イスラム嫌悪)の表れと見ている。

 だが、この事態のイスラモフォビア的側面はしばしば否定される。そのために持ち出されるのが、「ライシテ」の原理だ。いわゆる「政教分離」としての「ライシテ」の原理は1905年に制定された「協会と国家の分離についての1905年12月9日法」に基づいたもので、しばしば「世俗主義」としても理解される。この原理に反するということから、フランスでは政府機関や教育機関といった公的空間で宗教的象徴を持ち出すことが禁止されている。したがって「イスラムの」衣装とみなされたアバヤが公立学校で禁じられることも、その意味では道理に適ったことと思われるかもしれない。

 しかし、この説明によって全ての疑問が拭い去られるわけではない。第一に、アバヤが「イスラムの」衣装であるかという点については議論があり、この衣装の宗教性について否定しているイスラム教団体もある。つまり今回のアバヤ禁止措置は、多くのムスリム女性が着用している単なる衣服を、非ムスリムのフランス人たちがそのまま彼女たちの宗教的象徴として「誤解」した結果と見ることもできる。

 では、仮にアバヤが「イスラムの」衣装として認められたとしよう。それでもなお、「ライシテ」の原理によって説明がつかないことがある。それは、なぜこの国においてイスラムの衣装だけがこれほど標的となるのか、ということだ。「ライシテ」とはいかなる宗教にも政治的役割を担わせない代わりに、あらゆる宗教の平等性を担保することをその建前としている。にもかかわらず、なぜこの宗教だけがいつでも公共空間から排除されるのだろうか。それを如実に示しているのがヴェール(この場合は頭部に着用するスカーフのこと)をめぐる歴史である。実際、この衣装をめぐって今までに何度も公共の場におけるイスラムの存在が問題視されてきた。89年にはクレイユ市の中学校でムスリムの女生徒が排除され、2004年には公立学校から「これ見よがしの」宗教的象徴を禁じる法律、2010年には公共の場で顔を隠す法律が制定され、2021年にはスポーツ競技においてヴェールの着用を禁じる法案まで現れた。いずれの場合でも、あたかもこのイスラム的とみなされた衣装だけが、共和国の原理を侵犯しているかのように扱われてきているのである。

 こうした状況のなかで、「ライシテ」の原理はあらゆる宗教の平等を担保するためではなく、ある特定の宗教、すなわちイスラム教だけを公共の場から排除するように利用されている、と見ることができるのではないだろうか。このことはフランス人たちがその宗教に対して抱く恐怖の表れでもある。近年、イスラムの名のもとに行われたテロ事件に何度も見舞われたこの国の人々が、そのような恐怖を抱くことは、当然といえば当然かもしれない。とりわけ2020年、ムハンマドの風刺画を授業で使用した中学教員サミュエル・パティが斬首された事件は、学校教育におけるイスラムの意味について大きな影響をもたらしているように思われる。とあるインタビューのなかで大統領エマニュエル・マクロンは、今回のアバヤ禁止措置についてその事件が持つ意味を次のように語っていた。

「私たちはこの社会のなかで、ある宗教をねじ曲げ、共和国とライシテに歯向かってくる少数の人々とともに生きています。失礼、だがそのことは最悪のものをもたらしました。この国で、テロ攻撃とサミュエル・パティの暗殺があたかもなかったかのように振る舞うことはできないのです。」

 彼はこのあとすぐさま「私はいかなる対比もしているわけではありません」と付け加えたが、それは、図らずも彼自身がどれほど危険な対比をしたことに気づいたからではないだろうか。アバヤの禁止措置の理由に例の事件を持ち出すことは、ある特定の衣装を身に纏っただけの少女たちを、教師の首を斬った「テロリスト」と比べることであるからだ。これほど突拍子もない対比が口から漏れてしまうほど、イスラム教への恐怖は、彼ら政治家たちのなかで現実的なものとして扱われているのである。

 付け加えれば、今回のアバヤ禁止措置は、ヴェール禁止のときと同様に、イスラムの、とりわけ女性を標的としたものである。そこには植民地主義の時代から続く、ムスリム男性からムスリム女性を解放しなければならないという西洋中心主義的な使命感、他者のコミュニティを文明的に劣ったものとみなすオリエンタリズム、女性の衣服を管理・支配しようという男性優位のパターナリズムが混在している。かつてフランスはアルジェリアにおいてムスリム女性のヴェールを剥ぎ取ることを支配の一形態として利用していたが、現在の政府の対応はこの植民者的態度の継続として見ることができる。

 彼女たちがなぜアバヤやヴェールを身につけているかということは、フランス政府がそう信じるのとは異なり、単に宗教的な問題に還元できるものではない。去年秋、世界中の人々が、イランで、ヴェールの不適切な着用を理由に殺害されたある女性の死をきっかけに、女性たちが自身のヴェールを脱ぎ捨て蜂起するという力強くも美しい光景を目にした。だがこの光景から学ぶべきは、ヴェールが女性たちの「抑圧の象徴」であるということではなく、むしろ、衣装が持つ意味は歴史的・社会的文脈において大きく異なるということである。そのことは、例えば2020年、スポーツ競技においてヴェールを禁じる法案に対抗し、サッカーでそれを被る権利のために活動する「ヒジャブーズ(ヒジャブを被った女性たち)」の運動などがよく示している。ヴェールなどの衣装は、ある種の抵抗の表現として機能することもあるのだ。

 サッカーにおいてヴェールがいかなる障害となるのかが不明であるのと同様に(先ごろのサッカー女子ワールドカップでは、モロッコ代表チームの選手が大会史上初めてヴェールを被って出場したことで話題となった)、学校教育においてアバヤがいかなる障害となるのかは不明のままだ。だが、それはあたかも「ライシテ」に関わる重大な問題であるかのようにメディアでも議論された。本当にそうなのだろうか?そもそも、これはそれほどまでに大々的に論じるべき事柄であるのか?深刻な教員不足、歴史教育の問題や物価高など、学校教育の向上に向けて、もっと他に議論すべき事柄はたくさんあるはずだ。そうしたことについての議論すべてが、このアバヤ・パニックでかき消されてしまった。ここに、ムスリム女生徒の排除という直接的暴力に加えて、もう一つの問題があるように思われる。(終)

Women wear Abayas as they walk in an underpass in Nantes, western France on August 31, 2023. The French government’s decision to ban schoolgirls wearing abayas — long, flowing dresses of Middle Eastern origin — has opened a fresh debate about the country’s secular laws and the treatment of Muslim minorities.(Photo by LOIC VENANCE / AFP)

参考文献

ジョーン・W・スコット、『ヴェールの政治学』、李孝徳訳、みすず書房、2012年

Carine Fouteau, « L’interdiction de l’abaya, symptôme d’une France en pleine panique identitaire », Mediapart, le 6 septembre 2023. (https://www.mediapart.fr/journal/france/060923/l-interdiction-de-l-abaya-symptome-d-une-france-en-pleine-panique-identitaire)

Christelle Hamel, « De la racialisation du sexisme au sexisme identitaire », Migrations société, n° 99-100, mai-août 2005, p. 91-104.

Félix Boggio Éwanjé-Épée et Stella Magliani-Belkacem, Les féministes blanches et l’empire, Paris, La fabrique éditions, 2012.

Neil MacMaster, Burning the Veil, Manchester University Press, 2009.

Sara R. Farris, Au nom des femmes. « Fémonationalisme » : les instrumentalisations racistes de féminisme, trad. de July Robert, Paris, Éditions Syllepse, 2021.


須納瀬淳(すのせ・じゅん)

1986年生まれ。研究テーマは歴史認識論、植民地主義と資本主義の暴力(レイシズムとセ
クシズム)について。たまに雑誌や新聞などに寄稿。音楽(と映画と文学)が好き。いつで
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