【第11回】インドネシア語通訳の世界へようこそ「今後に向けた課題」
今回のテーマは「今後に向けた課題」です。
第3回で、次のように書きました。
・インドネシア語の通訳サービスは、経済学でいう「市場の失敗」に陥った状態。
・その最たる原因は、売り手と買い手の間に「情報の非対称性」(情報の偏在)が見られること。
・買い手側にサービスの質を判断するための情報が乏しいせいで、いわゆるレモンの原理で逆選択が起きて(=安いばかりで粗悪なサービスが「悪貨は良貨を駆逐する」的に市場を席巻して)しまっている。
こうした現状を変え、インドネシア語の通訳サービスがまともな市場として、また生業として成り立つようにするには、何をどうしたらよいのでしょうか。
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「何を」は、はっきりしています。
原因を根っこから断つ――つまり、情報の非対称性を極力緩和して、逆選択が起こらないようにすることです。
「どうしたらよいか」ですが、経済学の知見では
・シグナリング
・スクリーニング
・制度や組織・機構の整備
といった方策が有効だとされます。
【シグナリング】
情報を持つ側が積極的に開示や発信を行い、持たない側へ伝える工夫のこと。
買い手の不安を取り除き、実際の質に見合った対価で取引が成立するよう、売り手の側から自発的に「うちのサービスには、これだけの価値や信用がありますよ」と直接・間接の判断材料を提供する(シグナルを出す)ような行為がそれに当たります
個人や企業によるブランディングなども、その一環として捉えられるでしょう。
通訳者の場合、何がシグナルになるでしょうか。
誰の目にも分かりやすいものとして、これまで積み上げてきた実績の一覧があります。
学歴や職歴、資格といった履歴書に書くような基本情報も、それが通訳者としての能力を直接示すわけではないにせよ、補助的な効果はあるでしょう(実際のところ、インドネシア語技能検定のA級、特A級などはクライアントからもエージェントからも高く買われる傾向にあります)。
もっとも、これらは「そこがシグナルとして生かせる人は生かせばよい」というだけの話です。
そうでない(まだ実績が少なかったりして見劣りしてしまう)人も、別のシグナルを組み合わせることで十分補えますから悲観するには及びません。
実績一覧や履歴書的なデータの羅列のみだと、無味乾燥になりがちです。
そこに味わいと潤い(?)を与えるには、マーケティングの世界でいうストーリーテリングの発想を採り入れるのもいいでしょう。
ありのままのリアルな姿(どのような背景と思いでこの仕事に取り組んでいるか、どこまで徹底した準備を行った上で本番に臨んでいるか、現場では何を考えどういったことに気を付けているか等々)を日々の具体的なエピソードも交えながら自分の言葉で包み隠さず語ることは、信頼感を与える強いシグナルとして働きます。
例えば私は、ちょうど今年(2019年)でインドネシアと出会って30年、通訳・翻訳を生業とするようになって20年、寝ても覚めてもインドネシアと通訳・翻訳に関することばかり考えている男です。
単純に好きだからというのもありますが、そこまでしないことには食べていけない現実もあり、他のもろもろは大半をあきらめて毎日せっせとこの仕事に向き合っています。
従来、そうした姿や来歴を知っているのは自分自身と家族などごく身近な一握りの人だけでした(※)。
ところがこれを外から見えるようにすると、そこに価値を見出し信頼を置いてくれる人が出てきます。
※:「通訳者は黒子に徹し、自分を一切表に出すべきでない」という考えも頭にありました。今は、「大事な仕事を任せる相手がどこのどういう人間なのか、全くえたいが知れないのでは不安に思う人もいる。そういう人には自分を見せて安心してもらったほうがよい」と割り切っています。
若くてもドキュメンタリー番組の主人公にはなれるように、まだキャリアの浅い人でもそれぞれに自分なりのストーリーがあるはずです。
真摯(しんし)に取り組んでいる姿や実力面でも即戦力として通用する証しをデータとストーリー――もちろん脚色なしのノンフィクションであることが肝心――で丁寧に発信していけば、届く相手には届きます(相手というのはクライアントに限らず、有望な人材を求めるエージェントなどの仲介業者であったり、頼れる仲間が一人でも多く欲しい私のような現役の同業者であったりするわけですが)。
シグナリングの形は、実にさまざまです。
プロとしてサービスの利用者や同業者・志望者のために役立つ知識や情報、ノウハウを進んで発信・共有することもしかり。
費用対効果から見た優位性(本質的なリーズナブルさ)に気付いてもらえるよう、料金設定に関する考え方を明示したり(第3回参照)、コスト節減・効率化の努力を具体的に紹介したりするのもまたしかり。
クライアントやエージェントにこびへつらわず、必要とあらば毅然とした態度で接すること一つ取っても、そこには自信と責任感を表すシグナルとしての隠れた効果があります。
能力や信用に関しては、第三者による客観的な声も大切です。
実際にサービスを利用してくださったお客さまや一緒に仕事をした同業者などに自身の言葉で語ってもらうことは、強いシグナルになります。
特に、実力はありながら経験年数の浅さなどがハンディとなって存分に活躍できていない人は、これを最大限に生かすといいでしょう。
補足:マーケティングの世界では、近年「ストーリーからナラティブへ」ということが言われているようです。まだ定義や解釈に揺れが大きいものの、この辺りのテーマについて考える際のヒントを含んでいるように思います。詳しくは「marketing (story | storytelling) narrative」等で検索してみてください。
【スクリーニング】
シグナリングとは逆に、情報を持たない側が積極的に仕向けて、持つ側から引き出す工夫のこと。
相手が自発的に情報を出してこない場合、こちらから尋ねたり条件もしくは選択肢を示したりして、答えや反応から先方の内情、意向などを知る行為をいいます。
クライアントあるいはエージェントが通訳者に履歴書や実績表の提出を求める行為が一つの典型ですが、逆に通訳者の側から行えるスクリーニングもあります。
私がエージェントにインドネシア語案件の取り扱い実績や対応体制、資料の適時入手に関する実績および取り組みといった情報を開示してくれるよう求めるのも、ビジネスパートナーとして組むべき候補を絞り込むためで(前回参照)、「通訳者側から行うスクリーニング」の一例です。
先ほど挙げた「クライアントやエージェントにこびへつらわず、必要とあらば毅然とした態度で接する」ことにしても、反応から相手を見定められるという意味ではスクリーニングを兼ねているといえるでしょう。
【制度や組織・機構の整備】
公的な資格・認定制度を設けたり、サービスの標準化を試みたり、情報開示を義務付けたりといったアプローチのこと。
「お上なり業界団体なりがやる話だろうから、私たち通訳者は直接関係ない」と思ってしまいがちですが、放っておくと何年経っても一向に話が進まなかったり、肝心の当事者である私たちを蚊帳の外に置いたままおかしな方向へ動き出し後戻りが利かなくなったりしかねません。
今すぐどこまで関与するかは人によるとして、わがこととして意識し、せめて動向に関心を払うぐらいは皆がしていいでしょう。
ちなみにこのアプローチですが、必ずしもカチッとしたオフィシャルな制度や組織・機構に限らず、私の築こうとしている「同業者や関係者とのオープンで緩やかなネットワーク」(第7回参照)を通じた情報交換、啓発その他の活動によってもある程度の代替的な効果が実現できるように思います。
そこは「カチッとしたオフィシャルな」世界とうまく連携しながら、相乗効果を発揮していきたいところです(漠然としすぎていて何を言ってるんだろうという感じかもしれませんが、さすがにここを掘り下げ始めると紙数が……。連載終了後もSNS等で私とつながっていてくださると、「ああ、このことか」と実際の展開を見届けてもらえるかもしれません)。
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過去の各回で指摘してきた点をはじめ、「今後に向けた課題」は枚挙にいとまがないほどです。
ただ、それらの間の因果関係を突き詰めて整理すると、とにかく今は以下の流れを実現することが何より喫緊の課題だと思われます。
(シグナリング、スクリーニング、制度や組織・機構の整備などによって)
情報の非対称性を緩和する
↓
逆選択は起こらず、ローエンドからハイエンドまで多様なサービスがそれぞれの質に見合った対価で取引されるようになる
↓
市場が市場として機能し(市場原理がちゃんと働き)、そこで経済的に意味のある相場が形づくられる
そこまで持っていければ後は各所が勝手に回り出し、今ある課題のうち少なからぬ部分はおのずと改善、解消に向かうはずです。
それでも残った課題、新たに生じた課題については、その時点の状況に応じて改めて考えればいいでしょう。
まずは通訳者もエージェントなどの仲介業者も、それぞれオフラインのつながりに加えてウェブサイトやブログ、ツイッター、各種のSNS(フェイスブック、リンクトイン等)、動画・音声配信サービス(ユーチューブ、ポッドキャスト等)の類いを適宜活用しながら「シグナリング、スクリーニング、制度や組織・機構の整備」に注力し、情報の非対称性を緩和する。言い換えれば、今は随所に見られる無駄にブラックボックス化した部分を一つ一つつぶし、全体としてオープンで透明性が高く、フラットで風通しのよい環境を実現する――この仕事を生業として持続可能なものとするには、皆でそこに取り組むほかないと考えています。
これを読んで「確かにそっちの未来の方がよさそうだな」と思い、実際の行動に移してくれる方が一人でもいらっしゃることを願いつつ、ひとまずこの辺で。
(了)
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「予備回」としていた次回ですが、番外編として皆さんからの質問特集とすることになりました。
連載各回の内容やそれと関連する事柄であれば、どんなご質問でも歓迎です。
筆者のメール(dobe@indonesiago.jp)宛てにお寄せください。
来月(2019年7月)15日までに届いた中からいくつかピックアップして、精いっぱいお答えしてみます。それでは!
インドネシア語通訳者・翻訳者。1970年、東京都小金井市生まれ。大学時代に縁あってインドネシア語と出会う。現地への語学留学を経て、団体職員として駐在勤務も経験。その後日本に戻り、1999年には専業フリーランスの通訳者・翻訳者として独立開業。インドネシア語一筋で多岐多様な案件に携わり、現在に至る。