第6回JACI特別功労賞 受賞者コメント 長井鞠子
この度、日本会議通訳者協会からJACI特別功労賞をいただく、と聞かされ、私のようなものがいただいても良いのだろうか、と本当に思いました。
とはいえ、私は現役の日英会議通訳者としては最高齢の数人になっているのは確かで、長年続けて通訳者としてやってきたことに対する「頑張ったね」賞をくださるのかも、と思い直し、同じ世代の日英通訳者の代表として有り難くお受けすることにいたしました。
思えば当時結婚していた配偶者の仕事の関係で東欧と豪州に住んで出産・子育てをしていた足掛け10年弱を除き、1967年の大学卒業後、他の仕事は一切しない、いわば純粋培養的に通訳業をやってきたわけで、よくぞここまで何十年も一つの仕事に専念できたものだ、と我ながら感心しています。
幼少期 「コトバ」への関心
母によると私は幼い頃から「コトバ」に関心のある子供だったらしいです。ラジオ、ピアノ、半袖みたいな言葉は、勝手にラジオのオ、ピアノのノ、半袖のでは全て助詞であると分解して、「ラジの時間、ピア、弾きたい、はんそ、着る」という具合に言葉にしていたそうです。
同じく幼い頃、母に「いくつって英語でなんていうの?」と聞き、「how manyよ」という言葉を引き出すと「ふーん、赤はレッドでしょ?じゃぁ、マリコの大好きな赤い靴はred how many って英語では言うんだね。」と自慢げに。長井鞠子人生初の翻訳です!やがて漢字が読めるようになると、新聞に書いてある意味のわからない言葉を「コミヤ(子宮)ってなに?ウリハル(売春)ってなに?」と質問責めにして母親を困らせたそうです。
いつから通訳をすることに目覚めたのでしょうか。確かに母は、戦前の教育を受けた人間にしては英語が出来る人でした。戦前、国際電話の交換手をしていたという事もあり、戦後、米軍が占領国として仙台に来た時に、総司令部GHQの民事部という所で母は働き始めました。その仕事の一環で、アメリカから著名人、特に女性が来ると(例えばエレノア・ルーズベルト夫人)通訳をしたりしている姿を小学生の私は見ていました。当時の子供ですから何となくアメリカ的なるものに憧れを抱いて育ちました。(何しろ、幼児期、進駐軍のトラックを追いかけてギブミーガム!ギブミーチョコレート!を叫んで遊んでいたワタシ!)
学生時代 本気で取り組んだ英語と音楽
中学校からは仙台市内の宮城学院というミッションスクールに通うようになり、英語は大好きでした。発音を重視する学校で、よその中学では4月から英語の授業があるのに、私の学校は夏休みまで鏡と睨めっこで発音記号を叩き込まれました。私の発音が良かったからか、よく学校の代表になり英語暗誦・弁論大会に出て大体優勝していました!
でも小中学校時代の私の活動の中心はもう一つありました。それは音楽。6歳からやっていたバイオリンで、いろいろな曲を弾くのが大好きでした。いくつも演奏会に出ていたし自分のリサイタルも、田舎で、ではありますが、ありました。
子供の頃、私は何になりたかったか?
一つは子供向けシェイクスピアで読んだ「ベニスの商人」のポーシャ。快刀乱麻、一癖も二癖もある金貸しシャイロックをやっつける。しかも美人でカッコいい恋人もいる!法律家が一つの夢。もう一つは何となく英語を使う仕事がしたいかも、という思い。英語で世界平和に貢献、なんていう高尚な事ではなく、何となくカッコよさそうだから。
そう、このことから分かるように、私は至ってノーテンキ、いろいろなことを面白がるけれど、あまり物事を深く考えないちょっぴり軽薄な高校生だったのです。今の高校生には想像できないでしょうが、外貨制限、渡航制限のある時代、アメリカにいくことは夢のようでした。半年遅れくらいでアメリカ文化センターで読める「セブンティーン」という雑誌の写真を食い入るように眺めては、シニアプロムとかデートとかティーンズのファッションをひたすら上っ面だけで想像し、憧れた16歳。そんな私は交換留学生になれる、という情報には当然飛びつきました。数次に亘る選抜試験を経て、1961年夏、私は晴れてテキサス州ダラス市の高校生になりました。
音楽を離れての生活は考えられず、バイオリンを携えてダラスに登場したおさげ髪の高校生。早速高校のオーケストラ部に入り、ダラス市内の高校生のバイオリンコンクールに出て優勝したり、テキサス州選抜オーケストラの一員に選ばれたり、同級生たちも親しく接してくれて、すんなりと高校生活に溶け込めました。英語も最初はクラスではお客様扱いでしたが、徐々に慣れ、今と違い、電話も料金が高くて頻繁にかけられず、インターネットもメールもSNSもない生活なので、日本語は家に手紙を書く以外ほとんど触れることもなく、十ヶ月の滞在を終える頃には日本語を忘れてしまいそうでした。
ICUから通訳者の道へ
帰国してすぐ大学受験、何となく進路についても考える時が到来。それでもやはりフワフワと浮ついた私はせっかく英語が話せるようになったから、相変わらず何となく英語を使う仕事に進みたいかな、程度。そこで選んだのが国際基督教大学。そしてそこで巡り会ったのがその後何十年も付き合うことになるオリンピック。1964年の東京オリンピックです。当時は帰国子女も大勢は居ず、そもそもボランティアという概念もなく、組織委員会は通訳要員をどう集めるか苦慮の末、大学生なら英語が話せるだろう、ということで都内の各大学に通訳業務を割り振ったのです。有料のアルバイト通訳です。お祭りごとは大好きな私ですし、話題のイベントには常に乗りたい(都電の最後の姿を見るために夜遅く銀座まで見にいっちゃうような)。学内の通訳募集に応募し、運よく選抜されました。
通訳の仕事とはいえ、殆ど通訳らしいことは何もなく(私の担当は選手紹介や結果のアナウンスを英語で言うだけ)、オリンピックという世界のお祭りの一員になり、組織委員会の日の丸のついたブレザーや制服一色、靴やバッグまで支給され、おまけに高いバイト料をいただき、言うことありません。通訳って何てオイシイ仕事なのでしょう。コツコツ努力とかいうことは苦手で、楽に面白いことをしたいワタシにはぴったりじゃありませんか!
という事で通訳の世界に一歩近づいた私です。
プロの通訳者として心がけていること
卒業後、いろいろとご縁があり、当時できたばかりのサイマル・インターナショナル社で通訳をしませんか?と誘われ、当時は専属制度もなく、ただ口約束で、はい、やります、と安請け合いしたノーテンキな私。
仕事を始めてみたら、実は会議通訳というのはトンでもなく大変で、楽に高いお給料をもらえると思った私の見込みは大外れ!先輩に比べできていない自分が恥ずかしく、会議のコーヒーブレークにブースの外に出られず、昼食時も先輩たちは賑やかにしているのに、私は食欲もなくじっと俯く…。
でも、そこで自分の負けず嫌いの性格が出てきて、先輩・同僚通訳者に比べ通訳が出来ていない自分が許せず、ちょっとでも頭角を表す通訳者になるためにはどうする?コツコツ型ではないけれど、与えられた仕事の準備をしっかりすることしかない!と当たり前の結論に。資料にはしっかり目を通し、単語帳を作り、時間に遅れず、ブースの中では同僚通訳と気持ちよく接し…。
嫌なガックリ来るような事ばかりではどんなに準備をしても、仕事に対する意欲は続きません。私がこの仕事は自分に合っているかも、と思ったのは、「私の通訳で、本来意思疎通の出来ない人と人を繋ぐことができているじゃない!」と実感する場面が増えたことでした。英語ができない人も、私の通訳を介して臆せず発言する。日本語が出来ない人も、私の通訳を介して日本のことを深く理解でるようになる。人と人は意思疎通ができてこそ、お互いに会話ができてこそ繋がれる。
私は単純に面白い事が大好き且つノーテンキな、どちらかというと軽佻浮薄に属する人間ですが、実は座右の銘は「世のため、人のため」であり、至って小心者ではありますが、「義を見てせざるは勇無きなり」なのです。自分の仕事が世のためとまでは行かずとも、そこにいる人の役に立っている、と思えたら、それ以上に自分にとって意味のあることはありません。この思いを抱きながらここまでやって来られたように思います。
もう一つ、通訳人生を通じて思うようになったのが「自分の感覚を疑え」です。今回の特別功労賞をすでに受賞されている故・米原万里さんに、「日英の通訳者は批判精神・複眼思考がない」といわば喧嘩を売られたことがあります。その時に思い出したのが、前述のダラスでの高校生活の終了間際の衝撃的な経験――それは留学生活の締めくくりに地元の高校生たちと交流しながらテキサスから北上したバス旅行でのこと。オハイオ州まで行っていつもの様に同世代の子達と体育館で遊んでいた時に、何ともいえない違和感、あってはならない、不釣り合いな何かを私は感じたのです。数分後にその違和感の正体に気づいた私の受けた衝撃…。違和感の正体は「周りに当たり前の様に黒人の高校生がいて、一緒に遊んでいた」ことに対する違和感だったのです。たった十ヶ月足らずの滞在で、私の感覚は「黒人は周りにいない存在」に簡単に染まり、自由・平等こそが人類の進歩だと思っていた知識や価値観はいとも簡単に現実に取って代わられてしまったのです。この経験で私は自分の感覚を一度は疑ってみるべき、と肝に銘じました。
通訳する時は話者に寄り添って、場合によっては乗り移ってその人の気持ちまでが聞く人に伝わる様に私は努めます。でも、そうしている自分の中に一部、自分の感覚を疑って複眼思考を持つ自分もいるのです。
こんなことを考えながら通訳人生を過ごしてきました。ここまで私を助け励ましてくださった諸先輩、一緒に笑い遊び悩んでくれた同僚通訳者の皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。またこのような名誉を与えてくださった日本会議通訳者協会にも再度感謝です。ありがとうございました。