【第1回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」
まえがき
ライラックは、中国語では“丁香花”、あるいは“紫丁香”という。
わたしが中国語に初めて本格的に触れたのは、七十年ほど前のことだった。
それは1950年に創立された長春(中国吉林省)の東北師範大学付属中学の誕生とほぼ重なる。わたしがその三年八組に編入学したのが1951年。
母校は、いわばわたしが中国語を身につけ、中国の級友と生涯交わるようになる原点であり、この体験がなければ、いまのわたしはあり得ない。
実は、Wechatを通して、母校の「校花」が“丁香花”、ライラックであることを最近知った。コロナ禍のためわたしは残念ながら参加できなかったが、2020年10月、創立70周年を祝してイベントが行われ、記念文集が上梓されたそうだ。そのタイトルは『校庭に香るライラック―永久に凋むことのない花々』。先生方をはじめ同窓生ら既に亡くなられた110人を偲んで、追悼の文章や詩が収められているという。
メールで送られてきたわたしとほぼ同世代の前副校長が書いたその本の序文には、ライラックのことが記されていた。怠け癖がついた生徒に対し、ある先生は「君は、来年もライラックを見たいのかい?」と言って叱咤激励するそうだ。
またかれは『校庭に香るライラック』と題して次のような自作の詩を披露し、他の人に曲をつけてもらっている。一部抜粋して訳してみると:
「窓の外にライラックの花咲き乱れ、遠く眺めれば、花の廊下の如し。
香り高き紫の花、窓辺にそっと佇み、ひそかに授業に耳を傾ける。
そよ風吹き、朗読の声とともに、教室に花の香漂う。
窓から外を眺めれば、ほのかな香り頬をかすめ、心に沁みる。」
(原文 “教室窗外 簇簇丁香,远远望去好像一排花廊。绿叶滴翠,紫花芳香,静静地躲在窗外,偷听我们的课堂。微风吹来,满室清香,伴着书声朗朗。俯身窗外,你总是亲吻我们的脸庞,把浓香沁透我们的心房。”)
でも、校庭にそんなにライラックが群生していたかな?残念ながらその情景が茫として浮かばない。そこで先生に伺ったら、“自由大路校舍院内窗下都是丁香、你可能忘了” (自由大路の校舎の窓の下はみんなライラックだったよ、忘れたの?)、ネットの向こうに、いささかがっかりしたような先生の顔が浮かぶ。「でも」と思う。わたしがいたのは七十年近く昔のこと、きっとライラックの木も小さかったのでは…。わたしは、しばし考えてから先生に“那时大概缺乏赏花意识吧!”(当時は、おそらく花を愛でる気持ちが欠けていたのでしょう…)と返した。
ひと口に七十年と言っても、この長い歳月、多くの校友がすでに鬼籍に入った。そしてわたしの周りでも多くの人が去って行った。
いざ回想記を書こうとすると、とりわけ第Ⅰ部の幼い頃の想い出は、曖昧模糊としてなかなか筆が進まない。そんななか頼りにしたのは、父のメモだった。当時父は細かい日記を書いていたようだが、敗戦間際の疎開や卡子(後述)の大混乱の中ですべてを紛失してしまった。そのため几帳面な父らしく、後で思いだしながら事象のみを列記したメモが残されていた。そのメモを拠りどころに、さらに『解放戦争』(王樹増著 2009年10月 人民文学出版社出版)などの書物を繙き、照合していくと、七十年余り前のできごとの輪郭が、少しずつ顕わになってきた。
したがって第Ⅰ部は、声はせずとも父の残した言葉を頼りに記憶の糸を手繰り寄せ、記した部分が多い。
第Ⅱ部は、主に帰国してからのこと…。わたしは、「通訳のイロハ」はもちろん「通訳とはなんぞや」ということすら知らないうちに、ふとしたきっかけから通訳の道を歩み始め、次第に魅せられていく。まだ日中間の国交が回復していない頃から、来日した中国の代表団に通訳として随行することが多くなり、日本に居ながらにして中国人や中国語に接する機会に恵まれた。その一方で、この七十年を通して激動する中国と日本の狭間で揺れ動く自分がいた。その不安定な気持ちを正直に描くことが出来ればと思う。
第Ⅲ部は、これまで折に触れて書き記してきた通訳という職業体験記の総集編である。1990年代に入り、フリーの会議通訳として働き始めた頃から書き残してきたものに、1997年年末から2000年9月にかけておよそ三年間『日本経済新聞』に連載した「通訳奮戦記」を手直しして加えた。日々悪戦苦闘した通訳の現場を少しでも実感していただけることを願う。
最後に、折に触れて発表したエッセー数篇を「余音」として収録した。
思えば、通訳者は孤軍奮闘するのが宿命で、一匹狼になりやすい。だが、数多くの小さな花が寄りつどって大きな房となり、清らかな香りを放つライラックのように、わたしはこれまでに出会ったさまざまな人々との出会いを束ねて、いつまでも日中両国の心を結ぶ懸け橋として「小さな紫の花」であり続けたい。
目次
第Ⅰ部 「満州」崩壊から新中国の誕生
第Ⅱ部 日本へ帰国―通訳の道へ
第Ⅲ部 中国語通訳奮戦記
第Ⅳ部 余音
第Ⅰ部 「満州」崩壊から新中国の誕生
「ブワウーッ」 突然、空気を震わせる凄まじい汽笛の音に、母に抱かれ見送りの人に手を振っていたわたしは、慌てて母の首にしがみついた。汽船は門司港の岸壁を静かに離れ、中国大陸の北の港、大連を目指し出航した。
1937年4月のことである。
この時、家族は父(37歳) 母(29歳) 兄(8歳) 姉(5歳)とわたし、合わせて五人。それにお手伝いさんが一緒だった。
これは後に母がわたしに語ってくれたことだが、日本を離れる前には伊勢神宮を参拝し、父の故郷広島に立ち寄ったとか。
父は、理化学研究所(以下「理研」と略称。注1)で放射性鉱物研究に取り組んでおり、すでに博士号を取得、中堅研究員として活躍していた。その後理研が中心となって1935年3月、「満州」における資源の「開発利用」を目的とする総合的な科学研究機関として首都「新京」に「大陸科学院」(現長春応用化学研究所)が設立された。
父のメモによれば、1936年に、「満州」の主要都市をはじめ更に山海関を越え、北京や天津、通州(河北省)にも足を運び、治安状況なども含め渡航前の調査をしたもようである。
父は「満州」で引き続き放射性鉱物の研究に従事するため大陸科学院に赴任することになり、1937年一家をあげて「新京」に移住した。
父は、「満州」という新天地に大きな夢と希望を抱き、それから八年後、国家が崩壊し環境が激変することになろうとは夢想だにしなかったのだろう。
だが、移住した年の7月7日には盧溝橋事変(注2)が勃発、全面的な日中戦争となり、そして1945年8月15日、日本は戦争に敗れた。「満州」で敗戦の日を迎えた多くの日本人は、その日から国によるすべての庇護を失った。無政府状態の混乱が続く異国の地に在って、誰も彼もが自らの才覚で生き延びることを強いられた。それ以外に選択の余地はなかったのである。
比較的裕福であったわたしたちの生活は敗戦によって一変し、それから二年、最愛の母が肺結核を病み、ふたたび日本の地を踏むことなく急逝した。その日からわたしの多難な人生が始まる。
やがて1949年10月、全土を制覇した中国共産党によって中華人民共和国が成立し、一部の日本人に対する「留用」(残留)政策が始まり、父もその対象になった。
こうしてわたしは戦中戦後の激変の期間、十六年にわたって中国で暮し、いまも中国語にこだわり続け、中国とかかわることになる。つまり、冒頭で述べた1937年4月の移住が、わたしの人生行路を決定したのだった。
注1:理研 1917年3月政府からの補助金、民間からの寄付金をもとに東京文京区駒込に創立。「機械工業の時代から理化学工業時代に大転換を遂げつつある世界の趨勢を説き、日本の基礎科学の振興を訴えた」科学者、実業家の高峰譲吉、産業界の大御所渋沢栄一らの賛同を得て設立した。
注2:中国では、七七事変という。北京郊外の盧溝橋付近で、1937年7月7日夜、日本軍が夜間軍事演習中に中国軍から発砲があったとして、攻撃した事件。その六年前、日本は中国東北部に傀儡政権「満州国」を建国していたが、盧溝橋事変を口実に中国への全面侵略を開始した。中国では、八年抗戦という。
神崎多實子
東京都生まれ。幼年期に中国へ渡航、1953年帰国。都立大学附属高校(現桜修館)卒。北京人民画報社、銀行業務などを経て、フリーの通訳者に。通訳歴60年余り、元NHK・BS放送通訳、サイマル・アカデミー講師。編著書:『中国語通訳トレーニング講座 逐次通訳から同時通訳まで』、『中国語通訳実践講座』、神崎勇夫遺稿集『夢のあと』(いずれも東方書店)。