【第2回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

第一章 「五族協和」の日々

 わたしは東京市豊島区雑司ヶ谷で生まれた。

 多分父の勤め先、当時の本郷区駒込にあった理化学研究所に近いので雑司ヶ谷に居をかまえたのだろう。  

1937年4月、中国東北部の長春、当時の満州新京駅に降り立った時わたしは二歳足らずだった。盧溝橋事変が起きる三か月前のことである。

家族を連れて汽船で大連に向かい、大連から特急あじあ号に乗って新京に向かった父は、やがてスタートする大陸の暮らしに胸をふくらませていたのだろう。

「満州国」の研究機関 大陸科学院に赴任した父は、当時の中国での混乱した戦況をどの程度把握していたのだろうか。

手許にかろうじて残っている新京に到着した頃の写真には、銀ギツネの襟巻をした母、皮の帽子をスッポリかぶった兄、いまでは非難のマトになりそうなヤマネコの毛皮のシューバーに包まれた姉とわたし、それにお手伝いさんの姿が映っている。

(写真:1938年2月20日 新京)

誰もが多かれ少なかれそうであるように、父も異国に来てもできるだけそのまま元の東京の暮らしを再現したかったのだろう、わが家の応接間には、大きな「蓄音機」(プレーヤー)がでんと鎮座し、今でいう懐かしのメロディーが流れていた。「橇の鈴さえ寂しく響く、雪の荒野の…」(「国境の町」)や「山の淋しい湖にひとり来たのも悲しい心…」(「湖畔の宿」)など歌謡曲のレコードが多かった。

もの心がついた頃、新京北安路のわが家の隣家は朝鮮人、裏側には「満人」が住んでいた。

「リンゲイシュンサン」、わたしは隣の朝鮮人の男の子によく声をかけた。いわばわたしの最初の「国際友人」である。「林迎春?」、多分文字に当てはめればこうなるのだろう。

でもかれがわたしの名前を呼びかけてくれた記憶はない。声の記憶がないのである。いつもわたしが一方的に誘っていたのかしら?

時折姿を見せるかれのお母さんは、彫りが深く、眉毛が濃くて険しい目つきをしていた。お兄さんの「リンゲイロク」(林迎禄?)さんは、母親に似て精悍な顔つきだった。

リンゲイシュン君は、ややのっぺりした顔立ちの、人のよさそうな男の子だった。

林家の軒先には、いつも赤い唐辛子やニンニクが吊るしてあり、なにやら独特の臭いを発していた。庭先の大きな甕には、白菜がいっぱいつまっていて、唐辛子で赤く染まった白菜の間から小さな生魚がのぞいていた。いまにして思えばキムチ。軒下には、先の尖った白い靴が、数足並んでいた。そういえば白いチョゴリに白い靴のお母さんの姿がとても印象的だった。

リンゲイシュン君とは、林家の庭先に高く積みあげられた藁の山に登っては、藁まみれになってよく遊んだ。

もう一人の「国際友人」は、裏側に住んでいる「満人」の男の子。当時の日本人は満州族、漢族にかかわりなくみんな一律に「満人」と言っていたと思う。

わたしがうちの庭で遊んでいると、有刺鉄線の垣根越しにいつもその子がじっと眺めていた。髪を七三に分け、おとなしそうなとても可愛い子だった。

一度だけその子のうちに遊びに行った覚えがある。

靴のまま通されると、なかはがらんとしていてテーブルのほかなにもなかった。何を話したらいいのか、お互いにただもじもじしていた。やさしそうな纏足のお婆さんが、ネジリン棒の形をした揚げたお菓子を持ってきてくれた。いま思えば多分“(マー)(ホワ)”だろう。

おもしろい「満人」のおじさんにも出会った。

ある日、わが家の庭で子犬と戯れている時だった。

「トウやー、トウやー」と呼びながら、子犬のトウを追いかけまわしていると、道路沿いの赤レンガ塀の上からおじさんがヒョッコリ顔を出した。

「オジョチャン、ナンデ モヤシ、モヤシッテイウノ?」

わたしは何の意味かさっぱり分からずキョトンとしていた。でもこのおじさん、なかなかの日本語通だったのかもしれない。多分わたしの「トウやー」は“(トウ)(ヤー)”であり、日本語に訳すと「もやし」になるのである。どうも子犬をもやし、もやしと呼ぶのはおかしいじゃないかと言うことだったらしい。

こうしてみると、なにやらわたしの幼少時代は、国際色豊かで、朝鮮人や「満人」の友だちに囲まれて仲良く遊んでいたようにみえる。まるで日本、朝鮮、中国、モンゴル、ロシアの「五族協和」を地で行くかのようだ。

しかし、それは親の意向によってわたしが日本人の幼稚園に行かせてもらえなかっただけのことである。

当時新京には日本人小学校が十数校、幼稚園もあり、文字通り租界の様相を呈していた。もし幼稚園に行っていれば日本人の友だちがたくさんいたのだが、兄が小学校に入学しても幼稚園の頃の遊び癖が抜けず悪戯ばかりするので、「幼稚園は百害あって一利なし」と親が判断したらしく、姉とわたしは行かせてもらえなかったに過ぎない。(兄の名誉のために一言付け加えると、兄はその後東洋美術史を専攻し、早稲田大学教授になった。)

当時のわたしは隣の朝鮮人と裏の「満人」しか知らなかったが、わが家を含めてその住宅街は官舎だった筈であり、彼らの父親も「満州国」の公的機関で働いていたのだろう。つまり、「五族協和」を唱える満州国政府の縮図ともいえる小さなコミュニティーをなしていたのだ。

その頃の満州国の首都新京は、東洋のユートピアと謳われ、わが家でもトイレは水洗、地下にボイラー室があって冬になると家全体に暖房が通る。「(チュー)(リン)」というロシア風のパン屋へ行けば、今風のジャムパンやクリームパンなどおいしいパンが買えた。真冬には庭先に父が水を撒いて、畳一畳ほどの自家製スケートリンクを作ってくれて、スケートの真似事に興じたりした。

「満州」といえば、大地に沈む真っ赤な夕日、それに新京の馬車(マーチョ)は、経験した誰もが忘れられない原風景ではないだろうか?

当時の『新京案内』(永見文太郎編集 康徳6年=1939年 復刻版)によると「1937年末の新京の人口はおよそ33万人。その内訳は、内地人65235人に朝鮮人7032人を加え、いわゆる「日本人」はおよそ72000人。それに『満人』261691人、その他外人 734人。とくに1931年の『満州事変』(柳条湖事件、)勃発後、年々日本人は、激増していった」とある。

交通機関は、路面電車、タクシーなどもあるにはあったが、何と言っても異国情緒たっぷりのマーチョが一番よく使われていた。 

母は当時「満語」と言われていた中国語を習い始めていた。父の勤務先である大陸科学院の研究者の夫人たちが数人、勉強会をしていたらしい。時々“大褂儿(ダーゴアル)”(丈の長い中国服)をまとった「満人」の先生がわが家に来ていた。教科書は、灰色の表紙のコンパクトな本だったから、当時唯一の中国語テキスト『急就篇』(宮島大八著)だったのだろう。でも母が話す中国語を耳にしたのは、マーチョに乗った時だけしか記憶にない。

 母に連れられて買い物に行き、デパートから自宅に向かう途中、マーチョに乗りながら、馭者に“左边儿(ズオビエル)”、“右边儿(ヨウビエル)”と母がカタコトの中国語で「左、右」と指図していた。母のややぎこちない“儿化(アルホワ)”(児化=語尾を巻舌音化する)の余韻がいまも忘れられない。

雪の降る日は、後ろ座席はジャバラの屋根で覆われるが、マーチョを操る馭者の席は雪に打たれるまま。やがて垢で黒光りした綿入れは雪で覆われ、防寒帽の下から真っ白になった髪や睫毛が覗いていた。やさしい目をした馬も、白い息を吐き吐き、時には口元に小さな氷柱をぶらさげて走り続ける。

馭者は上手に手綱を繰りながら馬を走らせ、やがてわが家の前にたどりつくと、ユイ(“吁”=止まれ yu)とひと言、馬はパカッ、パカッと直立不動の姿勢をとるのだった。ここでは、「馬語」も中国語なのだ。

買い物と言っても、よくご用聞きがわが家に来ていたし、「満人」でもカタコトの日本語をしゃべるので、母にとって中国語を使う機会はあまりなかったようだ。

ましてや巷では、中国語とはおよそ似ても似つかぬ「这个(チィエゴ)(この)大根、中すかすかで不行(ブシン)ダメ(だめ))じゃないか」式のひどい中国語がまかり通っていた時代なのだ。

母は、いつも机に向かって、筆でなにかを書いていた。短歌を作って『満州歌壇』に投稿したり、ふるさと白子(埼玉県和光市)の母親(わたしの祖母)に手紙を書いたりしていたのだろう。わたしは母の横に座らされて、お絵かき、塗り絵、写し絵(水にぬらして紙などにはり、台紙をはがすと紙に絵が転写される)などをして遊んでいた。

母は自分の手紙に添えて、わたしの絵を祖母によく送っていたらしく、祖母が大切に保存しておいてくれた。

4、5歳のときの絵

たまに表通りが騒々しくなり、外に出てみると、ぐるりと大勢の人に囲まれたなかで大道芸人が演技をしている。屈強な男の腕を鉄棒に見たてて、少女が足をかけたり、体を海老反りにして、足を頭に載せたり、次々とサーカスもどきの演技を繰り広げる。暗く、悲しげな表情の少女を夢中になって見つめていると、やがて母が飛んできて、強引に家のなかに連れ戻される。「ダメですよ、勝手に見に行っちゃ、人さらいにでも(さら)われたらどうするの?あの子みたいにされますよ」。この「人さらい」という言葉は、耳にタコができるほど聞かされた。

 わたしが初めて耳にした中国語の歌は、“(イエン)群飛(チュインフェイ)”(雁が飛ぶよ)と「満州国国歌」。それは、兄や姉が小学校で教わってきた中国語の歌だった。わたしはそれをまる暗記しただけで、発音はかなり怪しく、わけも判らずに歌っていた。現在の簡体字で書けば次の通り。

 「雁群飛」

 晴天高,白云飘,西风起,雁群飞,

 排成一字一行齐,飞来飞去不分离。

 好像我,哥哥弟弟,相亲相爱不分离。

 青空高く、白い雲浮かぶ 西風吹いて 雁たちが飛ぶよ

 一列に並んで、みんな離れずに飛んでいくよ。 

兄弟仲良く、いつも一緒だよ。

「満州国国歌」 1933年版

天地内 有了新満州 新満州 便是新天地

頂天立地 无苦无忧 造成我国家 

只有亲爱 並無怨仇 人民三千万,人民三千万

纵加十倍也得自由。

重仁义,尚礼让,使我身修,家已齐,国已治,此外何求。

近之则与世界同化,远之则于天地同流。

 この世界に新満洲あり                                                                                              

 苦しみなく 憂いなきわが国家 

 あるは親愛のみ 怨仇いずれもなし

人民三千万  人民三千万

自由も十倍、仁義を重んじ、礼儀をたっとび……

              

 この「国歌」は、荘重な『君が代』とは正反対のリズミカルな歌で、子どもにはとても親しみやすかった。なかでも後段の「家已(ジャーイー)(チー) 国已(グオイー)(ジー)」(家すでに(ととの)い、国すでに治まる)の個所は、おもしろおかしく響き、わたしはリズムに乗って跳んだり跳ねたりしながら口ずさんでいた。

この「国歌」は、当時「満州国国務院」総理で、随筆家でもある鄭孝胥の作詞による。ただし十年後には、この歌は皇帝への言及が欠けているとして、日本語の歌詞による、「君が代」に似た感じの荘重な「国歌」にとってかわられた。どこかわらべ歌を思わせるような軽快さも、日本の為政者にとっては不謹慎に映ったのかもしれない。

しかしこの時、すでに中国の民衆の間では、この「国歌」の替え歌が流行っていたそうだ。

 「この世界に偽満州(・・・)あり 苦しみと悲惨 不自由は十倍(・・・・・・)…」(澤地久枝著『もうひとつの満洲』より)


神崎多實子

東京都生まれ。幼年期に中国へ渡航、1953年帰国。都立大学附属高校(現桜修館)卒。北京人民画報社、銀行業務などを経て、フリーの通訳者に。通訳歴60年余り、元NHK・BS放送通訳、サイマル・アカデミー講師。編著書:『中国語通訳トレーニング講座 逐次通訳から同時通訳まで』、『中国語通訳実践講座』、神崎勇夫遺稿集『夢のあと』(いずれも東方書店)。