【第3回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」
国民学校の頃
ほどなくわが家は新京の南湖に近い盛京大路の官舎に移り、1941年4月わたしは春光国民学校に入学する。明治以来慣れ親しんだ「小学校」という名称が戦時体制に対応して「国民学校」と呼ばれるようになった年である。
それでも入学式の日、わたしは新京のデパート三中井か宝山で買い求めたピンク地に黒い格子模様のワンピース、靴は皮靴といったヨーロッパ風のハイカラな出で立ちで、和服姿の母に付き添われ、うきうきしながら学校へと向かった。一年一組、担任は男の天本先生だった。
国語の教科書は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」に始まり、「コマイヌサン ア コマイヌサン ウン」へと続く。最後には『桃太郎』の話が載っていた。特に大陸事情という教科があったほかは修身、教練など多分内地とは大差なかったのではないかと思う。
ただ音楽だけは、内地とは異なる「満州」独特の北国にちなんだ唱歌が多かった。
「満州」育ちの誰もが愛唱した歌「わたしたち」、「寒い北風吹いたとて くじけるようなわたしじゃないよ。満州育ちのわたしたち…」や「こんなに風の吹く夜は、カササギどんなに寒いでしょう。一晩おうちが揺れ通し、揺れ通し…」、 その外「粉雪サラッサラッ 粉雪サラッサラッ 街の粉屋の夜は更けて ロバの目かくし はずすころ 粉雪サラッサラッ…」など。
「満州」の雪は、湿り気のないさらさらした雪、空から落ちてくるというよりは、横殴りの、顔を刺すような粉雪。そして粉を挽く粉屋では、丸い臼の周りを、一日中小さなロバが目隠しをされてぐるぐる回る。やがて夜の帳が静かに下りるころ、ロバの目隠しが外され、店を閉じる。こうした雪に関わる抒情的な歌が多かった。
わたしが得意だったのは国語で、とくに朗読の出番はよくわたしに回ってきた。二年の時クラスメートが犬に噛まれ、狂犬病に罹って亡くなった。わたしは追悼式で弔辞を読んだ。母はわたしの書いた作文に目を通し、少し手を加えたりした。たとえば「学校から帰る途中…」などというところを「野菊の花の咲く道を…」などと書き変えたりした。
「新京」の冬は長く、数か月にわたって一面銀世界になる。雪で固くなった道路を小走りに滑りながら登校するのもまた楽しい。落とさないようにと分厚い手袋の左右両手を毛糸の紐で繋ぎ、肩からぶら下げていた。なによりも楽しみなのは、スケート。冬の間の体操の授業はスケートだった。先の尖ったスピードスケート靴を室内で履き、先生方が水を撒いて造ってくれた校庭一杯のリンクへ駆け出して行く。肌を突き刺すような寒さだが、リンクを走り抜けると体も温まり、清々しい気持ちになる。
冬の「満州」は、うっかり濡れた手で自宅の玄関のノブでも触ろうものなら、一瞬にして手がくっついてしまうほどの極寒の地だ。
しかしたとえどんなに寒い日でも学校の掃除は欠かせない。
手洗い場の前のコンクリートの廊下で、ぬれ雑巾を四角に延ばして拭こうとしたとき、友だちが通りかかった。 しばし雑巾掛けの手を休め友だちと立ち話をしてから、ふたたび戻って両手をそろえて床の上のぬれ雑巾を一押ししたら、勢い余ってつんのめり、鼻をしたたかコンクリートの床に打ちつけてしまった。
立ち話が災いして、雑巾がすでに床にカチカチに凍りついてしまっていたのだ。
鼻からたらたら血がたれてきた。慌てて手洗い場で鼻を洗ったが鼻血は一向に止まりそうにない。仕方なく担任の天本先生の所へ走った。
「どうしたのだい?」「鉄棒のとこで逆上がりしていたら、鼻をぶつけてしまいました」
きまりが悪くて、つい嘘をついてしまった。
先生はわたしの言葉をそのまま信じてチリ紙を揉んで丸め、鼻に詰めてくださった。
「そうか、痛かったろう」、先生の目はとても優しかった。
天本先生は、おそらく三十代半ばか、当時すでに副校長を兼任していらしたから将来を嘱望されていたのだろう。「センセイ」を「シェンシェイ」と発音され、熊本の出身だと聞いた。
当時の学校では軍隊式の厳しい教育を受けたという話をよく耳にするが、天本先生はとてもやさしかった。
しかし、第二の「満洲国歌」が制定された1942年ごろになると戦時色がいっそう濃くなる。音楽の教科書『うたのほん』(小学二年、関東局出版)を見ても、素朴で叙情的な歌が減り、「国引き」、「軍かん」、「おもちゃの戦車」、「ちゅうれいとう」(忠霊塔)など国家的、軍事的な色彩が濃い歌が多くなる。
そのうち集団登下校が提唱され、軍歌を歌いながら通学し、体操の授業もスケートではなく雪のなかの行軍などが取り入れられていった…。
習字にも「不自由を常と思えば不足なし」や「欲しがりません、勝つまでは」などのスローガンを書くようになった。
では日本占領下の「満州」で生きていた中国の同世代は、その時代をどう見ていたのだろうか?
ずっと後に知ったことだが、彼らは、実に冷徹な目で、この「満州」の現実を見ていた。
1950年代初期、解放後の長春の東北師範大学付属中学のクラスメート陳君は、わたしの前の席で、いつも静かに『三国志』などを読んでいる勉強家だった。
小学校時代を新京の中国人小学校で過ごした陳君に訊いてみた。「子どもの頃、スケートしていた?」答えは明解だった。「あの頃、スケート靴なんて誰も持っていないのだから、やれるはずないでしょ」
そしてかれがさりげなく発した言葉にどきっとした。「子どもの頃は、いつもヤオバイばかりやっていたな……」
“ヤオバイ?”、一瞬わたしには、その中国語が理解できなかった。満州時代の新京にはもちろん「満人」学校があり、そこでも日本の学校制度が実施されていたのだ。日本人学校と同じように毎日朝礼があり、奉安殿のご真影を礼拝するだけでなく、遥か東に向かって「宮城遥拝」が行われていたというのである。“遥拜=ヤオバイ”は、毎朝東西南北、四方に向かって、各三回ずつ、計十二回もやらされたと言う。
彼らにとって“遥拜”は外来語であり、遥か遠い「満州」から、見たこともない日本の宮城に向かってお辞儀をするなど屈辱以外のなにものでもなかったろう。いま“遥拜”は完全に死語となり、中国語の辞書には見当たらない。
ちなみに陳君は1937年生まれ、北京の名門清華大学卒、エンジニアとして活躍し、現在は武漢在住。
かれは、「満州」時代をふりかえり、次のように綴っている。
以下は、2020年8月に陳君が記した想い出の記。
遥拝の日々-ぼくの小学校時代
1944年、ぼくは両親といっしょに「満州国」の首都、「新京市」、つまりいまの長春の二道河子に移り住んだ。春になり学校も始まった。
ぼくが入ったのは、臨河街小学校。普通の小学校で、生徒と先生はほとんどが中国人だった。担任は秦蘭堂先生で、心に残るとてもいい先生だった。当時課目は、国語、算数、音楽、図画、体操、勤労奉仕があり、他に三課目、建国大綱、建国方略、建国精神というのがあった。ただ、この三課目は実際に習ったことはない。いま風にいえば、考察課とでもいうものだろう、思想教育的なものだといえる。当時の評価は、四段階制で、優、良、可、不可とされていた。ただし、不可は落第なので、最低でも可をとらなければならなかった。さもないと、追試か留年の処分を受けた。一学期のぼくの成績は、ほとんどが優で、体操と図画だけが良か可だった。だから父はまずは満足していたようだ。
入学して印象に残っているのは、毎日朝の体操のとき、長い時間をかけてまずは「国民訓」を日本語で暗誦することだ。実際これを正しく暗誦できる者は誰もおらず、ラジオ(拡声器)からおかしな声が聞こえてくるだけだった。その後で遥拝をする。天照大神に敬意を表するとのことだが、そもそも天照大神はどこの誰なのかさっぱり分からない。
当時習った国語は二種類あって、一つは日本語、もう一つは「満語」で、両者の比重はほぼ同じ。日本語の授業はほとんど毎日あった。授業中は中国語をしゃべってはいけないことになっていた。生徒によっては進歩が目覚ましく、小学校卒業の時点で三等通訳官に受かる友だちもいた。一方「日本語は勉強してもむだだ、後三年で使えなくなる」とも噂されていた。
その頃、一番いやだったのは、体操の授業。それは先生がほとんど日本人で、一列に並ばされて、教師が後ろから見て回る。気に食わないと膝の後ろを一蹴りする。つんのめったら、すぐに起き上がらないと、続けて蹴り上げる。立ち上がって「はい」と言って気を付けの姿勢をとると、やっと蹴られずにすむ。これは、武士道精神を身につけさせるためということだった。
体操の時間には、サッカーや騎馬戦をよくやった。騎馬戦とは、四人一組で、三人が下で馬になり、一人が上で下の二人の腕に足をかけ、相手方の四人と戦うのである。上の者が引きずり降ろされれば、負けである。いまにして思うといささか野蛮な感じだが、当時はけっこう喜んでやっていた。
またある時、「満州国」皇帝のお出ましだというので、小学生たちが道端で歓迎することになった。みんな道の両側に並び、お尻を道路側に向けて跪く。長いこと待たされてから、後ろをたくさんの車が通り過ぎて行った。でも恐ろしくて後ろを振り向けない。はたして皇帝はいつ通り過ぎたのかさえ分からなかった。後で銘々に箱に入ったお菓子が配られた。上に花の模様があり、とても甘かった。先生が、これは宮廷特製のお菓子で、皇帝のご恩に感謝するようにと言った。
当時日本人との接触は、ほとんどなかった。学校にいた補導主任は日本人で、いつもしかめ面をして、先生たちも一目おいていた。会えば必ず深々とお辞儀をし、誰もが避けるようにしていた。ただ体操教師の日本人は避けようがなく、やられっぱなしだった。もちろん中国人の体操の教師も生徒を殴った。時にはもっとひどかった。だから日本が負けてから、多くの中国人体操教師も中国人の生徒に殴られたりした。
あるとき、ぼくは、日本兵が乗っていた自転車が中国人にぶつかったのを見た。だが日本兵が降りる間もなく、ぶつけられた中国人が慌てて走り去った。そのときぼくはおかしいと思った。日本兵がぶつけたのに、まるで中国人が邪魔でもしたかのように咎められるのである。不公平じゃないか、ぼくはそのことが長いあいだずっと気になっていた。
水と油―「満州」の若者たち
「新京」には、十数校の日本人小学校のほかに、大学も六、七校はあった。
大学では、「同化」を目指して日本人学生と「満人」の学生らが起居をともにしながら学んでいた。
建国大学でも、大同学院でも、内地から派遣された日本人学生が多数を占めてはいるものの、現地の「満人」、朝鮮人や蒙古人学生らが、合わせて数割いたらしい。
「王道楽土、五族協和」の理念のもと、彼らはともに暮し、将来の夢を語り、議論を闘わせ、食、住、勉強を共にする「三同」を理想としたという。
だが、現実と乖離した「五族協和」は、結局「満人」の若者たちの心の琴線に触れることはなく、彼らは日本人学生とは共通の言葉を持ち合わせなかった。
長野から「新京」に渡り、大同学院で学んだ渋谷文雄さん(株式会社タチエス元会長、後述)の話では、中国人学生らは、日本が戦争に負けて学校が自然消滅するのを待つまでもなく三々五々姿を消し、残るは日本人学生だけになっていったという。中国人学生らは形だけの「友愛、協力」に嫌気がさして、ある者は延安に、ある者は重慶に走り、または自分の故郷に帰っていったのであろう。
所詮彼らは日本人学生とは水と油の関係で、「五族協和」が謳う水魚の交わりには到底なりえなかったのである。
前述の陳君は、日本敗戦を間近にして次のように記している。
「1945年8月に入って、急に張りつめた空気に包まれた。どの家も窓ガラスに紙を貼るようにとのお達しがきた、飛行機で爆撃されると窓ガラスが飛び散ってケガをするというのである。また防空壕を掘るように言われたが、掘るまでもなくソ連赤軍がやってきた。まずは空軍が二発爆弾を投下した。一つは『新天地』という歓楽街に、もう一つは河に落ちた。そのため僕の家では、伊通河の岸辺に避難した。老若男女が河岸に詰めかけ、子どもたちは騒ぎまわり、大人たちは浮かぬ顔をしていた。夜になって予想通り飛行機が飛んできた。みんな息をひそめて声を押し殺していた。突然、照明弾が数発投下され、辺りが真昼のように明るくなった。飛行機はしばらく旋回していたが、爆弾を落とさずに去って行った。
その後、父は長春が危ないと察し、ぼくと祖母を郊外の友人の家に預けた。ぼくはそこで『満州国』が崩壊し日本が負けたニュースを知った。ただそれは、日本が降伏してから随分経ってからのことだった。こうしてぼくの一年半の小学校の生活は終わった。」
同じ「新京」市内に暮らしていた陳君は、毎日の朝礼で行われる宮城遥拝、国語の授業の半分は日本語、「満洲国」皇帝のお出ましの時の道端での歓迎…、当時謳われた「日満友好」の狭間で、中国人として複雑な思いで現実を見てきたのだろう。一方のわたしは、かれらとは接点のない、まったく別な空間にいた。当時のわたしが見たのは「満人」の馭者や憂いを込めた大道芸人の少女くらいで、ただ「可哀そうな人たちね」と同情の眼差しを注ぐだけだった。
こうしてみると、わたしの「満州」とは、「満州」の中に浮かんだ蜃気楼だったのかも知れない。わたしは「満州」にいながら「満州」そのものから切り離されて、「満州」でも日本でもない架空の世界で暮らしていたのかも知れない。チャーズという生き地獄を通り、長春を「脱出」するあの日までは……。
神崎多實子
東京都生まれ。幼年期に中国へ渡航、1953年帰国。都立大学附属高校(現桜修館)卒。北京人民画報社、銀行業務などを経て、フリーの通訳者に。通訳歴60年余り、元NHK・BS放送通訳、サイマル・アカデミー講師。編著書:『中国語通訳トレーニング講座 逐次通訳から同時通訳まで』、『中国語通訳実践講座』、神崎勇夫遺稿集『夢のあと』(いずれも東方書店)。