【第2回】匂いにまつわるなにやかや「ヒトが匂いを感知する仕組み」
こんにちは。
なかなかニットが安心して着れる気温にならず困っています、栗原です。
さておき匂いにまつわるなにやかや、第2回はヒトが匂いを認知する仕組みについてです。
- ヒトが匂いを感知する仕組み
- 匂いの通訳?嗅覚受容体
- 隣の人の匂いの世界
- 香りの小話
ヒトが匂いを感知する仕組み
前回でそもそもにおいとはというお話をしましたが、ではヒトはにおいをどうやって感じているのでしょうか。
匂いという化学物質を感知し認識するプロセスは、まずにおい物質が鼻の内部にある鼻腔(nasal cavity)に届くところからはじまります。鼻腔は左右それぞれ1円玉ほどの大きさをしています。
におい物資が鼻腔に到達するルートは2つ、鼻先(鼻外孔/nostril)から吸い込むルートと、飲食物を咀嚼している時に吐く息とともに鼻腔に入るルートです。前者はオルソネーザル経路と、後者はレトロネーザル経路と呼ばれています。ちなみにこの香りにも名前がついており、オルソネーザル経路から感じられる香りは鼻先香と、レトロネーザル経路は口中香と呼ばれています。
鼻腔に届いたにおい物質は、次に鼻腔上部にある嗅上皮(olfactory epithelium)と呼ばれる部分を覆う嗅粘膜(olfactory mucosa)の中に溶けます。そして粘膜に溶けたにおい物質は、嗅覚受容体(olfactory receptor)という受容体で受け取られます。この受容体は粘膜の下に存在する嗅細胞(olfactory cells)から伸びる嗅線毛(olfactory cilia)という部位の細胞膜の中に存在しています。
におい物資が受容体に結合すると、におい物質の情報は嗅覚受容体によって電気信号に変換されます。嗅覚受容体は通訳のような存在ですね。そしてその電気信号は、脳のいちばん底にある嗅球(olfactory bublb)の中の神経細胞の束である糸球体(glomerulus)という組織に伝わります。
糸球体に届いた匂いの情報は、その後2つのルートで脳に伝わります。1つ目のルートは、視床(thalamus)を経由して脳の最も外側の部分である大脳新皮質(cerebral cortex)の嗅覚野という場所で処理・認知されるルートです。ちなみに視覚、味覚、聴覚、触覚で感知された情報も同じ経路を辿って大脳新皮質で処理・認知されます。
もう一つのルート、こちらは嗅覚独自の経路で、脳の大脳辺縁系(limbic system)という部位に直接電気信号が伝わるルートです。大脳辺縁系は、ルート①でふれた大脳新皮質の下にある層で、辺縁系と皮質下構造がこれに含まれます。辺縁系は海馬(hippocampus)や帯状回(cingulum)、歯状回(dentate gyrus)など、皮質下構造は扁桃体(amygdala)や側座核(nucleus accumbens)などからなります。
帯状回の前部と扁桃体を中心とした領域は喜怒哀楽といった感情を司るとされ、帯状回後部と海馬他は空間情報処理や、いつどこで何をといったエピソード記憶の形成に重要な役割を果たしています。また、海馬や歯状回の板前部は、扁桃体と連携して情動の文脈的記憶に携わっています。
大脳辺縁系に届いた情報は、その後自律神経や内分泌系の中枢である視床下部(hypothalamus)と、ホルモンに関与している下垂体(pituitary gland)まで伝達されます。
ヒトがある匂いを嗅いで、何の匂いだったかと認識する前に何かしらの感情を覚えたり身体的な変化が起きたりするのは、匂いの情報が脳のこの部位に伝わるためです。
と、ざっくりとですが以上のプロセスを経て、ヒトは匂いを感知し認識しています。
匂いの通訳?嗅覚受容体
JACIの連載ということで、通訳のような嗅覚受容体についてもう少し。
嗅覚受容体が発見されたのは1991年と、比較的最近のことです。受容体の種類はおよそ400ほどで、1つの嗅細胞には1種類の受容体しかないと考えられています。嗅細胞は約数百万~1千万個存在することから(本で違う)、ある1種類の嗅覚受容体は単純計算で~2.5万個ほどあるということになります。
そして、同じ匂いを感知する受容体の刺激は、1つの糸球体に集約されると考えられています。たくさんの嗅覚受容体がさまざまな信号を発し、音符が集まって曲になるように、脳がその組み合わせをある匂いとして解釈している、ということです。
また、1種類の嗅覚受容体はにおい物質丸ごとではなく、その一部を認識すると考えられています。前回の話を引くと、ある嗅覚受容体はユズノンという物質に反応するのではなく、ユズノンという分子のもつ構造の一部に反応するということです。そのため、1つの受容体は共通構造を持つ複数のにおい物質と結合するということになります。しかし、実際に匂い分子のどこを認識しているのかが分かっている嗅覚受容体は未だありません。
ちなみに、約400種類のうち結合するにおい物質が分かっている嗅覚受容体は50種類ほどで、ヒトが何種類の匂いを嗅ぎ分けることができるのかも未だ明らかになっていないそうです。
そんな嗅覚受容体ですが、ではどのようにして匂いの情報を電気信号に変換しているのでしょうか?この節ではそこもう少し掘り下げて説明します。が、なにせ用語が次々登場する箇所のため、5段落ほど下にするするスクロールして次の節に飛んでいただいても大丈夫です。
嗅覚受容体は、別名Gタンパク質共役型受容体(GPCR/G-protein coupled receptorの略)と呼ばれており、別名の通り(同じく細胞膜上に存在する)Gタンパク質とアデニル酸シクラーゼ(adenylate cyclase)という物質と共に働きます。Gタンパク質の方は、α、βそしてγという物質からなり、におい分子が受容体に結合する前はこの3つは一つの塊として存在しています。また、αにはGDP(グアノシン二リン酸/guanosine diphosphate)という分子がくっついています。
受容体の外側に匂い分子が結合すると、受容体は変形し、変形した受容体の一部がGタンパク質と接触します。するとαに結合していたGDPがはずれ、外れたGDPのかわりにGTP(グアノシン三リン酸/guanosine triphosphate)が結合します。GTPが結合すると、αはβとγの塊から外れ細胞膜の中を移動し、細胞膜にあるアデニル酸シクラーゼに結合します。
そうして活性化したアデニル酸シクラーゼは、細胞内にあるATP(アデノシン三リン酸/adenosine triphosphate)という分子をcAMP(環状アデノシン一リン酸/cyclic adenosine monophosphate)に変換します。
その後cAMPが細胞膜のイオン濃度を制御しているイオンチャンネルに変化を起こし、それによってイオン濃度が変化する事で、細胞膜の活動電位が変化し脱分極の状態に、つまり細胞膜の興奮を引き起こすことで電気信号が発生します。
こうして電気信号に変換されたにおい物質の情報が、前節の2つの経路を通じて脳に伝わります。
隣の人の匂いの世界
以上のような仕組みでもってヒトは匂いを感じていますが、全てのヒトが押し並べて同じように匂いを感じているかというと、そうではありません。
遺伝的理由から匂いを感じないアノスミア(anosmia/嗅覚脱失)や、弱くしか感じられないハイポスミア(hyposmia/嗅覚減退)という特性が存在します。ただし、視覚のように特定の色ではなくその対象となる匂いは様々です。
また、コロナウィルスはその最たる例ですが、ウィルスや手術の後遺症や合併症、あるいは外傷、加齢、精神疾患等の後天的な理由から、嗅覚が弱まってしまうもしくは失ってしまうという場合もります。
他にも、他の物の匂いに感じられる嗅覚錯誤(パロスミア/parosmia)や、実体はないのに匂いを感じる幻臭(ファントスミア/phantosmia)もあります。嗅覚過敏(hyperosmia)という状態も存在します。
加えて、嗅覚受容体の遺伝子だけでなく、馴染みがあるかどうか、これまでの生活の中に存在していたかという文化的背景も、個人の匂いの感じ方に影響します。馴染みのある匂いほど、ヒトは快いと感じる傾向が高いそうです。
さらにさらに、連合学習といって生まれた後の学習によって身につけられる匂いの価値観というのもあります。例として、排泄物のにおいを悪臭と感じることが挙げられます。
また、困ったことに危険な香りを全て不快に感じるというわけでもありません。例えば青酸ガス(hydrogen cyanide/zyclone B)は極めて危険な匂い物質ですが、杏仁豆腐のような香りをしています。
ひとりひとりの匂いの快不快といった言うなれば匂いの価値観は、遺伝的な理由と連合学習や文化的背景といった環境的な理由が綯い合わさって形成されており、すぐ隣の人が同じ匂いの感覚世界を持っているわけではないといえます。
香りの小話
最後にちょこっと、匂いと脳に関連した香りものと本の話を。
ある匂いを嗅ぐとそれにまつわる記憶や感情が呼び起こされる現象は、プルースト効果と呼ばれています。マルセル プルーストの小説『失われた時を求めて』にちなんで名付けられていますが、香水にもプルーストに着想を得て創られたものがあります。フランスのメーカーLes Bains Guerboisの1900 L’Heure de Proustという香水です。小説に登場する紅茶はもちろん、柑橘類やベリー、アンバー、レザー、バニラなどなどが香るというより薫るような、とても重層的でありながら繊細な香水です。
さて本の方は、モリー バーンバウムさん著 ニキ リンコさん訳の『アノスミア 私が嗅覚を失ってからとり戻すまでの物語』(勁草書房)。原題はSeason to Taste How I Lost My Sense of Smell and Found My Way。こちらはうってかわって著者自身のアノスミアの体験を綴った本です。
シェフを志していた著者は、料理学校に入学する直前に交通事故に遭います。靭帯の断裂や骨盤の骨折、顔面の怪我などに加え、頭部に衝撃が加わったことが原因で鼻と脳をつなぐ嗅神経が断裂し、匂いを一切感じることができなくなってしまいます。このアノスミアからの時に目覚ましく唐突で、時にどうしようもなくもどかしい回復の過程が描かれています。
著者の匂いにまつわる様々な思い出や繊密な匂いと心情の描写に、匂いについて著者が驚きの行動力で調べ、研究者や研究所を訊ねて集めた科学的知識がふんだんに編み込まれています。匂いというものがいかに日常に感覚的・時間的多元性を与えているかを知ることができる、おすすめの本です。
というわけで今回はここまで。
ちょいと長くなりましたが、次回もまた読んでいただけると嬉しいです。
医学・化学系の用語及び英語は以下を参考にしています。
– JGLOBAL https://jglobal.jst.go.jp/
-『病気がみえる vol.13 耳鼻咽喉科』医療情報科学研究所、2020
-『病気がみえる vol.7 脳 神経』医療情報科学研究所、2011
-『ステッドマン医学大辞典 改訂第6版』メジカルビュー社、2018
-『南山堂医学大辞典 第20版』南山堂、2015
– “Lost or changed sense of smell”, NHS, 2020
https://www.nhs.uk/conditions/lost-or-changed-sense-smell/(2023年11月5日情報取得)
資料
-長谷川香料株式会社『香料の科学』株式会社講談社、2013
-平山令明『「香り」の科学 匂いの正体からその効能まで』株式会社講談社、2017
-新村芳人『嗅覚はどう進化してきたか 生き物たちの匂いの世界』岩波書店、2018
-ルカ トゥリン、山下篤子訳『香りの愉しみ、匂いの秘密』河出書房新社、2008
-Dale Purves et al., “Neuroscience. 2nd edition”, Sinauer Associates, 2001
-安田政彦『平安京のニオイ』吉川弘文館、2007
-東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命科学専攻生物科学研究室「においの科学のウソ・ホント」
https://park.itc.u-tokyo.ac.jp/biological-chemistry/profile/essay/essay31.html (2023年10月23日情報取得)
栗原 友(くりはら ゆう)
大学卒業後、事務兼翻訳の派遣社員に。現在は通訳・翻訳として小売企業勤務。趣味はラジオ、散歩、読書、美術館・博物館・植物園巡り。