【第22回】わたしの通訳修業
松本由紀子さん
update:2017/05/01
通訳業を仕事にしてから、あっという間に成人式を迎えるほどの年月が経ちました。
その間、思い返せば山あり谷あり、うまくいったこと以上に失敗したことも数々あり、自分なりにいろいろと経験をしてきました。まだまだ未熟者ですが、やりがいのある仕事に出会えて、自分は本当に幸運だったなと思います。今回、このような機会をいただき、通訳者になろうと思っている方、または社内通訳者からフリーランスの通訳者になろうかどうか悩んでいる方に向けて、何か参考になることがお伝えできれば幸いです。
もし、いま、通訳を職業として考えている方がいらっしゃいましたら、迷わず通訳スクールへの入学をお勧めします。一期だけでもいいと思います。一度通ってみてください(スクールの回し者ではありません)。目から鱗がぽろぽろ落ちるはずです。
無知というのは怖いもの…
私が初めて通訳スクールの門をたたいたのは、4年半の留学を終えて帰国した半年後のことでした。当時、浦島太郎状態になっていた私は、カルチャーショックならぬ、リエントリーショックに苦しんでおり、「日本社会への復帰の一環として通訳スクールに通う」という、あまり積極的ではない理由で学校に通っていた記憶があります。
それまで特に通訳を職業として視野に入れていたわけではありませんでした。英会話力は何とか身につけて帰国したと思っていましたので、英会話学校のその上は通訳スクールだろうと漠然と考えてのことでした。引きこもり中に英検1級は合格しており、多少は自信をもって選考試験に臨みました。
「無知」というのは怖いもので、結果は惨敗。かろうじて会議通訳基礎科Iに入学を許可されました。まさか、通訳スクールの入学試験で日本語がわからないとは思いませんでした。試験はリスニングと読解、英訳、和訳、そして単語を訳す問題が数問ありましたが、何問かで「日本語として知らない言葉」があり、当然、その対訳など知らなかったわけです。「配当」など今ではごく当たり前に口にする単語ですが、恥ずかしながら、当時はこんな言葉さえ聞いたことがありませんでした(私がものを知らなさ過ぎただけなのですが…)。その時は、よく漫画に出てくるようなハンマーで頭を何度も殴られたかのごとく、とてもショックでした。それから夢中になって通訳の勉強を始めました。
私のような生徒がたくさんいたのでしょう。このスクールでは、「トレンド」という分野ごとに単語がまとめられている辞書を丸ごと暗記させて、毎回試験を受けさせられました。これはつらかったのですが、いま、ふり変えると基礎の基礎固めとして大事な勉強だったなと思います。当時は、こんな単語を使うような会議に自分が出られるわけがないと思っていたのですが、後年、ひょんなところで役に立ちました。通訳者は広く浅い知識が必要とよく言われています。覚えて損になる知識はありません。
お客さんはお金を払ってあなたの訳を買っている
通訳スクールの利点のひとつは、通訳者になるための勉強を一つひとつ手ほどきしてくれることです。メモの取り方に始まり、サイトトランスレーション、クイックレスポンスは同時通訳技能の基盤となりました。が、それ以上に有益だったのは、とにかく自分のダメさ加減を的確に指摘していただけたことです。自分では一生懸命訳したつもりでも、「あなたの訳では、ちょっと英語がわかりますっていう人が訳した訳と大差ありません。お客さんはお金を払ってあなたの訳を買っているのだということを考えながら訳出しなさい」という評価をいただいたことがあります。その時はかなりこたえましたが、この言葉は今でも本当にそうだなと思いますし、戒めの言葉としています。プロになってからでは、こんな苦言を呈してくれる貴重な方はいません(現場で元担当講師とご一緒した場合は別ですが)。
先生方の厳しい指導のおかげで精神力はつきましたが、クラスメイトと自分を常に比較し、奈落の底まで落ち込むことも何度かありました。帰り道の地下鉄で電車を待ちながら、「あぁ、他人はこんな気分の時に、ふらふらと線路に吸い込まれるのかもしれないな…」と思ったことは一度や二度ではありません。ですが、今その頃のことを思い返すと、スクールでのこの針の筵(むしろ)に耐えられないようでは、おそらくプロにはなれなかったのではないかなと思っています。現場はその何倍ももっと厳しいのですから。
進級にはテクニックも必要
通訳スクールに通うことはとてもためになりますが、できるだけ短期間で進級し、修了することが得策です。ずるずると足踏みをしていると、それだけ現場に出る時期が遅れます。現場に出る時期が遅くなれば、現場で目いっぱい仕事ができる期間も少なくなるわけです。それが今も思う私のしくじりでした。あまり大きな声では言えませんが、私がスクール修了までにかかった時間は、小学1年生が中学生になる期間を優に超えていました。途中で別の通訳スクールに通ったこともありましたが、進級できないのは講師のせいでもなければ、スクールのせいでもなく、自分の努力不足のせいでした。
もしできれば、社内通訳の仕事を見つけ、クラスの授業だけでなく、本番環境で通訳する機会を多く持つようにした方がよいでしょう。私も実際に通訳専任で派遣社員として勤め始めてから、急に進級できるようになりました。
それでも足踏みするような場合は、先に進級したクラスメイトに助言を求めることをお勧めします。試験の受け方にもコツがあります。もしかしたら、自分の方法が加点につながっていない場合があります。私が最後に通っていたクラスの修了時がまさにそのような状態でした。受験と同じく、試験合格にはある種のテクニックが必要なこともあるのです。
社内通訳という経験
通っていたスクールと提携している通訳エージェントでは、基本的にフリーランスの仕事は「本科II」の修了が最低限必要でしたので、その間は複数の派遣会社から通訳兼翻訳の仕事をいただいたり、直接企業の契約社員に応募して企業内通訳として業務についていました。私は自分の経験から、フリーになる前に社内通訳の経験があった方がいいと思っています。当然ですが、社会の経済活動は企業が中心に担っているわけですから、会社に所属することで、組織の仕組みや動き方がわかります。会社員の経験がなかった自分にとって、とても勉強になりました。
今思うと、私にとって、とにかく場数を踏むことがほかの人に比べてずっと必要だったと思っています。こんな仕事をしながら何なのですが、困ったことに私は人見知りであがり症です。同じ企業内であれば、会議には決まった方が出席し、会議の内容も同じで落ち着いて通訳に集中できるようになります。もちろん、最初からうまくいったわけではなく、英語が理解できる方が一人でもいると、とたんに緊張して頭の中が真っ白になるということもありました。きっと自分に自信がなかったのだと思います。
過去勤めていた外資系企業では、スクールの授業料を全額補助してくださるところもありました。そこでの勤務経験は、いろいろな意味で通訳者としての成長を促してくれました。授業料を補助するだけあって、通訳者に求めるレベルが高く、また同僚の社内通訳者からも当然同じだけの技量を求められました。その前の会社では社内の打ち合わせ程度の会議だけを通訳していたのが、この会社では打ち合わせレベルだけでなく、役員が出席するきちんとした会議での逐次通訳まで行うことになりました。3名体制で、両隣から訳出の度にダメ出しが出され、かなりしごかれました。よく辞めずに契約終了まで務めたものだと今でも思います。現場で訓練ができるのも、社内通訳のメリットですね。
ただ、そうはいっても最終的にフリーランスになりたいのであれば、社内通訳でいる期間はあまり長くない方が賢明です。通訳スクールを修了する直前まで、私は複数の企業で社内通訳を行っていました。ほぼ通訳スクールに通っている期間と同期間でしたから、かなり長期間でした。ようやく意を決してフリーになると決め、エージェントに赴き面談となりましたが、そこでまた、自分では全く想定外のことが起きました。
フリーであっても社内通訳であっても
私の履歴書・職務経歴書を見て担当者が一言。「フリーランスとしてのご経験はないのでしょうか?当社は社内通訳のご経験は通訳者としての経験年数にカウントしておりません」。
驚きました。一般的な派遣会社ではなく、通訳エージェントに登録をしていたのは通っていた通訳スクールの母体のエージェント以外はなかったので、まさかそんなことを言われるとは夢にも思っておりませんでした。
その某エージェント曰く「社内通訳は日々同じ内容の業務であり、また周囲はいわゆる身内なので評価が甘く、フリーランス通訳者の経験と同等とは考えられない」のだそうです。同じ理由で、エージェント経由ではなく、直接顧客に依頼されて就いた業務もカウントされないとのことでした。この対応には衝撃を覚えました。社内ではありましたが、これまでまじめに仕事をしてきたつもりでした。それを「経験とは言えない」と一刀両断されたわけです。フリーであっても社内通訳であっても、通訳業務は通訳業務です。数百名の社員の前でスピーチの逐次をしたこともあれば、極秘の業務提携の交渉、メインバンクとの折衝時の通訳など、厳しい仕事もしてきました。社内通訳だからと言って、いい加減な仕事をしていいわけなどありません。ですが、エージェントによってはそう認識するところもあるということを、その時まで誰も教えてくれませんでした。
もちろん、全エージェントがそうだったわけではありません。登録する際には登録条件をよく調べてから、そしてもし可能であれば、そのエージェントにすでに登録されている方に紹介をお願いしましょう。驚くほど対応が違います。誰の紹介もなく、海の者とも山の者とも…といった状態で臨むのと、紹介者がいて、ある程度の人物保証をしてくれるのとでは、対応が違って当然といえば当然なのかもしれません。
社内通訳者の方も、時にはフリーランス通訳者と組んで社内の会議を担当することがあるかと思います。そういうツテをあとでたどれると良いですね。私は、同じ社内通訳者で同僚だった友人にエージェントや仕事を紹介してもらったり、未経験者可としているエージェントやスクールの母体のエージェントからの仕事で少しづつ年数を稼ぎ、登録社数を増やしていきました。
取り留めもないことをつらつらと書いてきてしまいました。もしも今、通訳の仕事をしようか、または社内通訳者からフリーランス通訳者に転身しようか迷っている方がいたら、10年後の自分を想像してみてください。おそらく、そこから答えが出てくると思います。環境を変えるのは勇気がいります。ですが、そこで腹をくくらないと、結局同じことの繰り返しです。特にフリーになるか迷っている方、やると決めたなら早い方がいいです。私は意思決定を先延ばしして、ぬるま湯につかっている時間が長すぎました。「生耳パナ同通」※ができるようになり、もう少し広い世界が見てみたくなったら、その時が好機です。頑張ってください。
※生耳パナ同通=話し手の声をイヤフォンを通してではなく、生耳(直に)で聞き取り、パナ(「パナガイドシステム」の略。同時通訳用の簡易送受信機)を使って同時通訳をすること。「生耳」は集中力とスキルが必要であり、パナを使いこなすのは全くの通訳初心者では難しい。
松本由紀子さん
Profile/
フリーランス会議通訳者。英会話講師の傍ら通訳スクールに通学、プロ科まで修了。
英会話講師を2年務めた後、複数の企業にて社内通訳兼翻訳者として約10年間従事。警察庁外郭団体から弁護士事務所、携帯電話、マーケティングリサーチ、テーマパーク建設、小売業などを渡り歩き、2006年より個人事業主として独立。好きな分野は医療、製薬だが、特に限定することなく、依頼というご縁のあった仕事を引き受けている。日本会議通訳者協会正会員。