【第27回】出産・子育てのブランクから通訳復帰を目指して

寺山なつみさん

update:2017/10/02

「このコラムを書いてみないか」と、以前何度か仕事でご一緒させていただいたことがあり、今では第一線で活躍されている先輩通訳者から連絡があったときは正直驚きました。というのも、私はここ5年近く、2度の出産、子育てのため通訳の現場から離れており、最近ようやく、通訳の仕事に戻る足がかりを模索し始めたところだったのです。スキルもすっかり錆びついてしまい、知り合いの通訳者たちは今や雲の上の人と感じるほど。離れている期間が長くなるほど、通訳業に戻るハードルはどんどん高くなるように感じていました。

しかし、そういった現状も知った上でその先輩(男性)が言われたのが、「子育てのために現場を離れた通訳者が直面している、復帰に向けての悩みや挑戦を等身大で書いてほしい」とのことでした。本来は、晴れて復帰を果たした後に自信を持って執筆するのがいいのでしょうが、圧倒的に女性が多い通訳業界で、同じような悩みを抱えている方にリアルタイム(?)での励ましになればと思いお受けしました。

通訳者になった経緯

沖縄で生まれ育った私は、高校、大学でそれぞれスコットランドとアメリカに一年ずつの交換留学をし、大学卒業後、しばらく英語講師の仕事をして軍資金を貯めたあと、アメリカの大学院に進学しました。振り返ると通訳を仕事として考えたことはなかったのですが、英語と教育に興味があったので、帰国後は幅広い年齢層に英語を教える仕事を続けていました。

転機が訪れたのは、沖縄県庁にある基地対策課の嘱託通訳・翻訳官として採用されたことです。このリレーコラムで先輩通訳者の玉城弘子さん(第4回)が紹介されているように、沖縄独特の環境で発生する通訳業務の一つです。難しさを実感すると共に、今まで知らかった世界を覗けるワクワク感と、通訳の奥深さに魅了されました。県庁内にいる、県知事専属通訳や国際交流課の通訳者たちと勉強会を持つ機会も多くあり、通訳を始めたばかりの新人には恵まれた環境でした。

もう一つ、通訳業にシフトする大きなきっかけとなったのが、法廷通訳でした。沖縄では米軍人・軍属が関係する事件・事故が軽微なものから重大なものまで幅広く発生しており、捜査や裁判での英語通訳に一定の需要があります。しかし、専門用語が飛び交う司法通訳は、私の実力ではとても及ばないと分かっていたので、法廷で活躍されている先輩通訳者たちを尊敬の眼差しで眺めているだけでした。

すると、ある日突然裁判所から電話がかかってきました。ある裁判員裁判が数日後に迫っているのだが、法廷通訳人の二人のうち一人が急病で入院してしまい、急遽、代役が必要だとのこと。新しいパートナーを必要とした法廷通訳人が裁判所に私を推薦したというのです。その方は沖縄の通訳界を長年けん引されてきた方で、私が駆け出しのときに同通ブースでの仕事を見学させてくださったり、色々と良くしてもらっていました。膨大な裁判資料を今から読む時間もほとんどなく、「大丈夫、メインは証人尋問と被告人質問のところだから、裁判の専門用語はあまり出てこない。普通の通訳と同じ要領でやってもらえば問題ない。」という言葉を信じて裁判に臨みました。

しかし、当日ふたを開けてみれば、傍聴席にはマスコミ関係者が詰めかけており、カメラも回っている(開廷前のみ)。実は、この裁判は米軍人が関係する重大事件で、ニュースでも大きく取り上げられていたのです。大ベテランの先輩通訳者に助けられながら無我夢中で何とか終えましたが、冷や汗の連続でした。のちに、捜査機関や裁判所での通訳は何回も担当するようになりましたが、緊迫した場面でもさほど動じなくなったのは、実情を知らずに引き受けた初回の裁判があまりに衝撃的だったからかも知れません。

その後、本格的な通訳訓練を受けるため沖縄を離れ、東京にある大手通訳学校で2年間学びながら、保険、宇宙分野で社内通訳の仕事を経験しました。大都会での仕事は刺激的で楽しかったのですが、ペースの速い生活に少し疲れを感じており、故郷に何らかの形で貢献したい気持ちもあって沖縄に戻りました。Uターン後は、大学と沖縄県語学センターで講師をしながら、捜査機関、裁判所、地元のエージェントから紹介される案件を請け負っていました。それから数年が経ち、今度は結婚で関東に引っ越すことになり、生活が大きく変化することになったのです。

出産・子育て、そして通訳業を離れる決心

結婚後はまず、移り住んだ千葉県の検察庁と裁判所に電話をかけてみました。通訳人の情報はデータベースですぐに出てくるようで、「最後に担当した事案は○○ですね。」と手続きもスムーズで、すぐに声がかかるようになりました。また、都内のエージェントからの紹介で、短期の派遣でコンサルティング会社での通訳もしていました。新天地での生活が落ち着いたころ、妊娠が分かり、出産予定日の1カ月前に最後の裁判員裁判での通訳を終えたところで、すべての仕事を休むことにしました。

初めての出産、子育ては想像以上にハードでした。
高齢出産で産後の体調不良もあり、実家から遠い地で頼れる人がいないこともあって、精神的に落ち込んでしまいました。今振り返ると軽い産後うつ状態だったと思います。慣れない子育てに追われながらも、子どもが10カ月になった頃、近くの保育所の一時預かりを利用して司法通訳を再開することにしました。復帰後しばらくして、裁判員裁判の通訳が決まり、公判当日までは弁護人との接見や公判前整理手続きなど、一連の通訳業務をどうにかこなしていました。

しかし、公判直前になって子どもがまさかの体調不良に…。一時預かりの保育園で流行っていた手足口病に感染し、40度近い高熱が出ていました。夫は多忙で仕事を休むことができなかったため、夫の母に電車で2時間かけて来てもらいました。これで仕事に行けるとほっとしたのもつかの間、裁判資料の翻訳準備と看病疲れから私も体調を崩し、公判当日は解熱剤を服用して法廷に向かうことになりました。

一人体制で臨んだ裁判員裁判は4日続いたのですが、本当につらい経験でした。義母の手伝いは大変ありがたかったのですが、病気の娘は私が帰るとべったりで、翌日の準備もままなりません。自分も熱と疲労のために少しでも休みたいと思っても、夜は娘が熱のために寝付けず何度も泣いて起こされます。寝かしつけては泣いて、起きての繰り返しが何度か続いた後、イライラがピークに来た私は、「いい加減にしてよ。何で泣くのよ!」と娘を強くゆさぶってしまいました。起きてきて心配そうに傍で見ていた夫が、何も言わず娘を抱っこして、深夜のベランダに出ていき、そこでしばらくあやしてくれました。

その時、私のことを一言も非難しなかった夫には今でも感謝しています。この一件で、私は今の状況で通訳を続けるのは無理だと考え、完全に仕事から離れることに決めました。それから1歳10カ月差で息子が生まれ、子育て一色の慌ただしい日々が続き、いつしか通訳は遠い夢の仕事になっていったのです。

復帰への一歩

上の子が幼稚園に入り、弟も話ができるようになると、もう一度社会に出て働きたいという気持ちが膨らんできました。子どもたちはアレルギー体質で呼吸器系が弱く、普段から予防のための気管支喘息の薬を服用していたのですが、大きくなるにつれて身体も少しずつ丈夫になっていきました。一時は、家庭との両立を考え、趣味程度で英語教室を開くことを模索したりもしましたが、知的刺激や達成感、コミュニケーション技術の駆使など、通訳の醍醐味が忘れられず、5年近いブランクを経て現場に戻ることを決意しました。

子どもを数時間預けられるようになると、日本会議通訳者協会やエージェントが主催するフォーラムに参加したり、知り合いの通訳者とお茶をして話を聞くことで、マーケットの現状を知ることができました。現場から離れても、通訳者のネットワークは業界のトレンドを知るためにも大切だと思います。

また、「浦島太郎」状態から脱するために新聞の電子版購読を契約し、業界や企業の情報収集を始めました。TEDのスピーカーでもあるCarol Fishman Cohen の共著“Back on the Career Track”も、ブランクからの復帰を計画する上で励ましになりました。

もう一つ、復帰に向けての行動は、通訳学校に戻ったことです。子育て中、通訳スキル保持のための自主訓練は、恥ずかしながらほとんどやっておらず(できる方はぜひやることをお勧めします)、英語力維持のため、かろうじて洋書を読んだり、BBCやCNNを聞くくらいでした。自主訓練を怠ったツケは大きく、クラス分けテストの結果は10年前に通った別の通訳学校でスタートした時より下のクラスでした…。かなりのショックでしたが、いまは謙虚に受け留め、楽しく通っています。

「楽しく」と言うと厳しい通訳訓練を真面目にやっていないように聞こえるかもしれませんが、子どもが追いかけてきてトイレさえ一人で入れないような生活から考えると、自分一人で電車に乗って学校に通えるなんて夢のようなことなのです。実務面での勘を取り戻すため、学校に通う選択以外に、エントリーレベルの通訳業務から徐々に幅を広げていくなど方法はいくつかあります。家族とのライフスタイルで無理のないよう、復帰を果たした方々の例も参考にしながら基本方針を決めていくのがいいと思います。

私もそうでしたが、ブランクが長引けば長引くほど自信を失い、なかなか一歩を踏み出せなくなります。出産後すぐに復帰してバリバリ働いている女性を見ると落ち込んでしまうこともあります。しかし、労働力不足のため女性の力を活用したい社会の潮流もあり、これから復帰する女性には十分チャンスがあると思っています。私自身、復帰への道半ばで感じるのは、他人と比べないこと、長い人生のスパンで考えると働く期間はまだまだあること、育児で得られた経験はキャリアでのプラスになるということです。ブランク期間があるからこそ、謙虚な姿勢を忘れず、家族や周りへの感謝の気持ちを持って、焦らず、地道に、大好きな通訳業への復帰を果たしたいと思います。

寺山なつみさん

Profile/

通訳・翻訳者。京都の大学、米国の大学院で学んだあと、地元沖縄県に戻り、英語講師として勤務。その後、沖縄県庁基地対策課の通訳・翻訳官に採用されたのをきっかけに通訳の奥深さに魅了され、東京の通訳学校で2年間学ぶ。

宇宙開発、保険分野での社内通訳、会議、法廷、捜査機関での通訳の経験を積むが、2012年に出産、育児で通訳業を離れることに。現在、5年のブランクを乗り越えて復帰すべく、錆びついた頭をフル稼働させて通訳学校に再び通い始めたところ。