【第2回】今日も苦し紛れ!放送通訳のブースから「”So steeped in history.”」

訳語についてあれこれ考えるという行為。これは何も通訳ブースの中だけとは限りません。私の場合、日常生活で見聞きする英語すべてが「通訳対象」となっています。あれこれ訳語を即座に考えること。そうした瞬発力を自分に課すのはスリリングでもあるのです。

ただ、放送通訳の場合、対象はニュースです。よって、いつもそうした「ゲーム感覚」で対処できるわけでもありません。ニュースの大半は事故や事件、人々の苦しみや悲しみなどが前面に出てきます。「訳語がひらめいた!よしっ!」とガッツポーズするにはふさわしくないことの方が大半なのです。

数週間前のこと。その日オフだった私は自宅でCNNをつけました。そこで映し出されていたのが、ベテランアンカーのWolf BlitzerとDana Bash。二人がポーランドのアウシュビッツからレポートしていたのでした。ウォルフ・ブリッツァーもダナ・バッシュもルーツはユダヤ系で、両者とも親族がナチスの影響を受けた経緯がありました。

レポートでは、二人がアウシュビッツの中を歩きながら、ホロコーストや昨今の世界事情について話す様子が映し出されていました。第二次世界大戦から長い年月が経ちましたが、今なお世界のどこかで戦いは続いています。なぜこのような不条理があるのか、改めて私自身、考えさせられたのでした。

そのような思いを抱きながら観ていた際、画面からso steeped in historyという言葉が聞こえてきました。詳しい内容は失念してしまったのですが、私が注目したのは、”steeped in history”という3語でした。

この表現を聞いたのは実は生まれて初めてでした。私は幼少期にイギリスに暮らしており、当時暮らしていたロンドン郊外の村にSteep Hillという急な坂道がありました。「傾斜の急な」を英語でsteepと言うことはそれ以来わかっていたのですが、”steeped in history”という動詞用法は初耳だったのです。

「もし今、私がこれをCNNのブースで通訳していたら、何と訳すだろう?」

私は瞬時に考えました。そして頭の中に浮かんだ「steep=急な」というイメージを素早く打ち消しました。目の前の画面では歴史の重みが映し出されています。しかも私は今、steepという動詞の用法を知りません。さあ、どう訳せば?

そこでふと浮かんだのが「歴史にどっぷりつかる」という日本語でした。動詞のsteepにそうした意味があるかはわかりませんでした。でも、「歴史にどっぷりつかる」という訳語以外は考えられなかったのです。私は急いで手元のノートに

so steeped in history 歴史にどっぷりつかる ?

と殴り書きしました。最後にハテナマークを付けたのは、自分の訳語が正しいかわからないため、後で辞書を引くためでした。

番組が終わっても、二人のレポートの重みは私の中で続いていました。そして一段落したところで辞書を引き、「steep 液に浸す」(リーダーズ英和辞典)であることを知り、自分のイメージが近かったことに安堵しました。と同時に、「訳語が合っていた・間違っていた」だけではない別の重さを、私は放送通訳という仕事から改めて感じたのでした。


柴原早苗(しばはら さなえ)

放送通訳者、獨協大学非常勤講師。上智大学卒業。ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言、大統領就任式などの同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも担当。ツイッター(@Addington76)も日々更新中。