【第14回】手話通訳士への道「手話通訳士(者)の仕事を考えてみます」

前回、「コロナ禍の手話通訳士(者)の仕事について」一般社団法人日本手話通訳士協会副会長の高井洋さんから課題となった点について報告していただきました。

コロナ禍、社会活動の制限により手話通訳依頼が激減し、手話通訳事業の存立さえ危ぶまれる状況が生まれ、手話言語通訳人材、手話通訳士(者)の身分保障などの課題も浮き彫りになったとの報告でした。

社会活動の制限は、手話言語通訳派遣事業所の存立が危ぶまれるほどの手話言語通訳依頼の激減以上に、コミュニケーション機会に様々な制約を受けたろう者にとって、手話言語によるコミュニケーション手段を共有できる場の減少、喪失が生じていたのではないかと容易に推測することができます。

母語とも第一言語ともいえる手話言語で自由な会話が楽しめる機会の減少は、心休まる会話のない暮らしを余儀なくされ、深刻な事態となっていたろう者が少なからずいたのではないかと思っています。

聞こえることが前提、音声言語が前提の社会の仕組みにより、様々な困難が集中的に表れた現象だと思います。

NHKの調査ですが、東日本大震災で、被災地の自治体での聴覚障害者の死亡率が全住民の1.7倍であったことがわかっています。

このこともコロナ禍におけるろう者の暮らしと同じ様に、いついかなる時にでも一人ひとりの命、健康、安心や安全など個々の「尊厳」を物差しに社会を見てみると未成熟さを感じざるを得ません。

この「未成熟さ」は、今の力量でも十分解決できるはずなのに、表現が悪いのですが、さぼっているために解決できないこと、地域や職場などによってはできていること、本気で取り組めばできるかもしれないこと、今検討していること等様々なことが含まれていると思います。

さて、ろう者は多数者である聞こえる人の中で暮らしているので、聞こえる人と手話言語によるコミュニケーションをすることは「無理」と、あきらめ、育ってきたことをうかがわせる手話言語通訳‟依頼”の一端を紹介します。

当たり前のことだと言われてしまいそうですが、念のため。

手話言語通訳の依頼は、聞こえる者とのコミュニケーション場面から生じます。

しかし、ろう者が手話言語通訳依頼をしているのは、私の経験上、聞こえる者とのコミュニケーション場面すべてではなく、これはどうしても必要だという場面であってもそのほんのわずかにすぎません。このように思っているのは私だけではないと思います。

そんな事例がありましたので紹介します。

では、再び一般社団法人 日本手話通訳士協会前会長の小椋英子さんに登場してもらいます。

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《~告別式でのできごと~50代での経験》

 ある聞こえない男性の方のお母さんのお葬式の場面です。その方は男性ばかりの兄弟の一番最後、三男だから喪主ではないわけ。

市役所にいる設置通訳者の働きがまずすごくて、その通訳者が三男のその人に、「あなたは喪主じゃないんだけれども、お葬式の時に手話通訳を頼むことができますが、どうですか?」って勧めたの。

この設置通訳の人の働きが素晴らしいでしょう? 彼は今までもちろん講演会とか自分の受診の時には通訳を頼むけれども、家族のそういうセレモニーみたいのには頼んだことがないし、お兄さん二人とも聞こえる人、両親も聞こえる、家族の中で聞こえないのは自分だけだけれどもそんなに不自由もなかったし、家族、親とのぎくしゃくもなかったし、不満もなかった。だからそんなに必要と思わなかったけれども、手話通訳の人が勧めてくれたもんだから頼んだ。

お葬式が始まって、自分の横に手話通訳者が立って通訳をしてくれてるわけです。参列者の人が来て挨拶してくれます。その時に自分のところで立ち止まって、「あなたのお母さんはね、こういう人だったんだよ」とか「あなたのお母さんと私はこういう関係だったんだよ」「あなたのお母さんは若いときね、バイクが大好きですごくスピード出して走ってたんだよ」という話を手話通訳を通してしてくれた。そうすると自分が知らなかった母親がそこにいたんだって。その時に「お母さん」って涙がバーっと出てきて、もう涙が止まらなかったって言うんですよ。

 手話通訳が終わった後で「今日は僕の知らない母親がいっぱいいた」って。その手話通訳者あとで「私は今日、『社会参加』ってこのことだと思いました」って言ったの。なぜかって、他の兄弟と同じようにその人は親送りができるわけね。他の兄弟が聞いていることと同じことを彼も聞いて、母親を送ってあげられるでしょ。母親の思い出を語ったり、母親を偲んだりね。そういうことで本当に、他の兄弟と何にも違わないように親送りができた。すっごく彼は満足したって。(小椋英子 私がめざす手話通訳者~学びと人間育ち~ 一般社団法人日本手話通訳士協会P20~22)

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 この事例から学ぶことは多いと思います。

 手話言語通訳依頼の背景には、聞こえること、音声言語優位の環境下のろう者の状況であり、未熟な社会であるが故の手話通訳士(者)の働き、手話通訳士(者)の学びとなる宝物がごろごろしています。

「こういう経験をしている通訳者とそうじゃない人、または同じ経験をしてもそれを感じる人と感じない人とはもう全然違ってくる。(~中略~)人の感情が交錯する場面で自分が何を感じ取れるか、何をキャッチできるか。ただ、機械的に手を動かす、正確に手話通訳をしよう、それも大事。プラスいろんな人の感情があって、いろんな人の感情が交錯しているのをどんなふうにくみ取って伝えていくのかっていうこと。人にも焦点をあたえていかないと。兄弟同士がお母さんを同じように偲べた。この手話通訳者は、自分の手話通訳史上に残る経験だと思うんです。」

と小椋さんは、続けています。

この本のタイトルのように、ろう者の置かれている現状を知る手話言語通訳が私たちの人間育ちに深く結びついている一面もつかんでいただければ幸いです。引用を長くしたので予定の文字数をオーパしてしまいました。<(_ _)>

次回も事例を紹介しながら社会の未熟さ、手話言語通訳の働き、手話通訳士(者)の学びについて考えてみたいと思います。

この学びは私の手話通訳士への道でもあるのです。

次回もお付き合いいただければ幸いです。


川根紀夫(かわね のりお)

手話通訳士。1974年、聴覚障害者福祉と手話言語通訳者の社会的地位の向上のため、手話言語、手話言語通訳や聴覚障害者問題の研究・運動を行う全国組織である「全国手話通訳問題研究会」の誕生に伴い、会員に。1976年、手話言語通訳の出来るケースワーカーとして千葉県佐倉市役所に入職。1989年、第1回手話通訳技能認定(手話通訳士)試験(厚生労働大臣認定)が始まり、1991年には、手話通訳士の資質および専門的技術の向上と、手話通訳制度の発展に寄与することを目的に「一般社団法人(現)日本手話通訳士協会」が設立され、1993年、理事に就任。日本手話通訳学会、日本早期認知症学会、自治体学会に所属。第4回JACI特別功労賞受賞者。