【第3回】手話通訳士への道「私の意識と社会意識ー私の育ち その2」
今回は、私が経験した出来事から、私をはじめとする人々や社会が障害(者)をどう見ていたのか。を、考えていただくためにいくつかの出来事を紹介します。
●先祖(親)の因果が子に報う
次の出来事は、今の私が子供のころの記憶を呼び起こしているので、私の記憶の一端であることをご理解ください。
小学校の高学年の頃だったと思いますが、二人の大人が家に来ました。
私に話したことを親に伝えてほしくて話しに来た(そうだとしても私には伝える術を持っていません)のか、定かではありませんが、次のような趣旨のことでした。
紀夫ちゃんの両親が聞こえないのは、悪い先祖がいたからだよ。
だから、私たちと一緒に信心すれば聞こえるようになるよ。
一度集まりがあるから両親と一緒に集まりにおいで。
そして、治るようにみんなでお願いしよう。
と。私は、ふーん治るのか。と思ったくらいで行動に移すことはありませんでした。
もう少し私が成熟していたら異なった行動をとっていたかもしれません。
まさに、諺の「親の因果が子に報う」の社会意識の表れと言えるでしょう。
あなたの言っていることは間違っていると反論があるかもしれませんし、自分のことを棚上げして何言ってんだと、言われそうですが「障害(者)は(い)ない方が良い」とする意識・行動の表れだと今は思っています。
当時の私自身を振り返ると、私の中に、親がろう者であることを恥じている自分がいたのは紛れもない事実です。ですから、第3者的な言い方になりますが、治してほしいと思ったに違いありません。ただ、治すために必要な行動を起こす力がなかったのです。
今は、障害者運動のおかげで、まだまだ未熟な面がありますが、障害(者)を認め、社会的包摂する社会が正常な社会だと思うるようになっていることを念のため書き添えておきます。
●聞こえないことを知られたくなかった私
これから紹介する出来事も上記の出来事と同じくらいの年齢だったと思います。
我が家に遊びに来ている友達や近所の人は親が「ろう者」であることを知っています。しかし、私の家に来たことも一緒に遊んだこともない友達から「お前のかあさんつんぼ(差別用語が含まれていますが、言われた言葉をそのまま使用しています)か?」と聞かれ
たとき、「そうだ」と言えず、窮したことがあります。その時の様子を紹介します。
小学校の校庭にある水飲み場で
Aさん 川根の母ちゃんつんぼなのか?
私 応えに窮し、沈黙。冷や汗。
Bさん 川根の母ちゃんは、ドイツ人なんだ。
日本語喋れないから話さないんだ。
私 ほっとして、そうなんだ。
Aさん そうか。
こんなやり取りがありました。
思い起こせば、幼さに加え、確かに母は、体形や顔の作りなどから、ドイツ人に見えないことはなかった思うのですが、それだけではなく、当時の情報、特に海外情報の乏しさなどからなんとなくAさんも納得していたのだと思います。
よく考えると情けない話ですよね。天国にいる父母がこのことを知ったらどんなに悔しがるかを考えると、あまりにも情けなく、謝っても謝りきれない出来事です。
●障害のある人と社会
障害者と社会を窺い知る約60年前の障害関係者の声から、障害者の置かれていた状況の一端を紹介します。
1963年、雑誌『中央公論』に障害のある子どもを持つ作家の水上勉さんが『拝啓池田総理大臣殿』というタイトルで公開したものです。
その内容は、①総理大臣に必死に生きている障害のある子たちに思いを寄せてほしい。②来年から、この子たちのための予算を用意して施設を拡大してほしいということをお願いしたものです。
続いて、同じ1963年に開かれた第13回全国ろうあ者大会のスローガンを紹介します。
①ろうあ者専任福祉司制度を充実されたい。
②地方にろうあ者更生寮を設置されたい。
③身体障害者雇用促進法の適用をひろげられたい。
④軽自動車の免許資格を与えられたい。
⑤組織の拡大と強化を期する。
1963年に開かれた第13回全国ろうあ者大会のスローガン
①は、障害者のために働く自治体の機関である福祉事務所にさえ「ろう者」と手話で話せるものがいないことからの要望です。このことは現在(一部手話通訳の出来る職員を採用していますが、行政サービスとして法定化されている手話の出来るケースワーカーを配置している自治体は極少数です。)も改善されていません。
同じ住民(国民)なのに手話日本語による行政サービスがなされていないため、ろう者に行政サービスが届きにくい状況となっていることを示しています。
行政サービスの大黒柱ともいえる教育の世界に目を向けてみると、障害のある人は、長く教育から排除されていました。一例としては、障害のある子どものための学校で養護学校(現特別支援学校)教育です。養護学校が義務教育となった(昭和23年度に学齢に達した盲児・聾児から盲・聾学校の義務化だけが行なわれた)のは1979年度のことです。
聾学校は、早くから義務化されましたが、第2回で触れたように長く手話言語が否定されていました。
いかに多数者優先、優位の社会であったことが理解できると思います。
●汚れを背負った私が・・・。
子どもの頃の出来事を紹介しましたが、そのころから半世紀以上を経た私の汚れは残念ながら払しょくできていません。ふとしたことでむくむくと頭をもたげてくるのです。
子どもの頃より少し成長した私ですが、まだまだゆがんだ人間観、そして、きわめて低い人権感覚は、社会意識が反映したもので、より色濃く表れたものだ。と考え、けりをつけようとするちょっとずるい自分もいるのです。
そんな私が、自分自身の「ものの見方・考え方」と日々向き合いながら手話通訳場面に臨むことが、人権施策としての手話通訳活動を担うことができるのだ。と思えるようになったのです。 なんと、古希になってです。
次回は、人間らしさをもとめて手話通訳の道を歩み始めたわたしに触れていきたいと思います。
川根紀夫(かわね のりお)
手話通訳士。1974年、聴覚障害者福祉と手話言語通訳者の社会的地位の向上のため、手話言語、手話言語通訳や聴覚障害者問題の研究・運動を行う全国組織である「全国手話通訳問題研究会」の誕生に伴い、会員に。1976年、手話言語通訳の出来るケースワーカーとして千葉県佐倉市役所に入職。1989年、第1回手話通訳技能認定(手話通訳士)試験(厚生労働大臣認定)が始まり、1991年には、手話通訳士の資質および専門的技術の向上と、手話通訳制度の発展に寄与することを目的に「一般社団法人(現)日本手話通訳士協会」が設立され、1993年、理事に就任。日本手話通訳学会、日本早期認知症学会、自治体学会に所属。第4回JACI特別功労賞受賞者。