【第4回】手話通訳士への道「我が国(千葉県でも)初の手話奉仕員養成ー手話言語を学びはじめた私」
千葉県ではじめての第1回手話奉仕員養成講座が開かれ、この講座に参加したことが手話通訳の担い手としての第1歩だったことは先に触れたとおりです。
手話奉仕員養成講座は、国(現厚労省)がはじめて手話言語を学ぶ場を事業化したものです。
事業名を見てわかるように手話通訳者ではなく、手話奉仕員の養成なので、通訳ボランティアの養成としてスタートしたものです。
この事業について全日本ろうあ連盟(日本聴力障害新聞〈縮刷版〉1948年⇒1973年(2)、11月1日号の2ページ参照)は、①手話通訳制度の確立を要求していたのに手話奉仕員ではぐらかした。②養成の責任を地方自治体に肩代わりさせた。とその問題点を指摘しています。
また、私の拙文とは違い、当時の手話言語学習の状況やろう者の状況を、大変読みやすく、楽しく読める本がありますので紹介します。
小出新一『手話知らんですんません ―手話を学ぶ人たちに贈る11章 (手話通訳演習 (2)) を学ぶ人たちに贈る11章― 』(全国手話通訳問題研究会、1987年、豆塚猛写真)
当時のろう者に対する社会意識が反映された事業で、色々な問題点を含んだ事業ですが、わが国の手話通訳制度の第1歩となったものです。
また、人として生きるにふさわしい環境の要ともいえる「手話言語通訳制度」を自ら作り出す「ろう運動」の成果の一つでした。
全日本ろうあ連盟の指摘にあるように、専門職の養成とは隔世の感がありますが、兎にも角にも国が手話言語学ぶ事業をはじめたのです。
この事業が、歴史的価値のある講座だとは露知らず、私は受講したのです。
偏見と差別意識満載の私が、なぜ手話奉仕員養成講座に参加することになったのか、どんな気づきや心情の変化があったのか、それは秘密です。
ともかく、18歳の私が、手話通訳の担い手として第1歩を踏み出したのです。
●第1回手話奉仕員養成講座
私は、父に誘われ小・中・高と同じ学校に通っていた悪友(親友)と、この講座に参加しました。
正確には、悪友が父に誘われ、悪友が参加することになったし、私の気持ちの変化もあったので参加したということなのです。
では、講座の概要を振り返ってみましょう。
半世紀も前のできごとを少ない記憶を頼りに紹介するので、上記の『手話知らんですんません』を読んでいただけるとさらに、理解が深まると思います。
講座の参加者について、記憶をたどると、わたしと悪友の他の参加者は、ろう者を多数雇用している会社の社長さん(会社の様子を見せてくれたので今でも鮮明に覚えています)の他民間人が2名だったと思います。
全部で3~40人程度の参加者だったように思いますが、5名の民間人以外は各市役所の福祉事務所で働いている公務員だったと記憶しています。
おそらく、千葉県は、参加者が少なかったので各市に声掛けして集めたか、各市の福祉事務所の熱意によるものか、あるいは両方であったのかは定かではありませんが、そんな状況でした。
●講師はろう学校の先生
連載の第2回で、手話の使用を排除してきた聴覚障害教育の一端を紹介しました。
我が国も国際的な動向と同様に、ろう学校の現場では手話の使用が排除されていました。こうした状況でも、僅かではありましたが、手話言語を身につけ、ろう者と共に活動していた先生がいらっしゃいました。
千葉(当時ろう学校は、分校1校含め3校ありました)にもそのような先生がいらっしゃり、2名の先生が講座の講師でした。
父は、ろう者団体の会長をしていましたので、来賓席に。ろう者団体の他の役員さんたちもお客様として参加していました。
現在ならば、ろう者が講師を務めるのは普通なのですが、当時はろう学校の先生が講師となっていたのです。
余談ですが、第1回手話奉仕員養成講座の修了生やろう団体青年部の人たちが中心になって、1971年11月千葉県ではじめて手話サークルを立ち上げます。
手話サークル活動の中で、全国的な経験を学び、ろう者が抱えている困難を含めて、当事者から手話言語を学ぶ意義についてまとめ、その結果、ろう団体が担う講師活動が展開されるようになった経緯があるのです。
さて、本筋の養成講座に話を戻しましょう。
私は、学校で先生からあまり褒められた記憶がありません。しかし、この講座では、すごく褒められたことを記憶しています。
映像として頭に残っている鮮明な記憶の一つは、スーツを着た先生が、黒板を背に笑顔で、私に、「とてもスムーズでいいですね。」の一言。
父に対する忖度やよいしょではなく、本当に筋が良かったのか、先生が褒めた真意はわかりません。
差別意識満載で、ろう者や手話を遠ざけてきた私が、ひょんなことから手話言語を学ぼうと思い、講座に参加したら、褒められたのです。一生懸命にならないはずがありません。
あまり褒められた経験のない私が、褒められ、がぜんやる気を出したのは言うまでもありません。
振り返ると、少しか、大分かは別として、のぼせ上った私は、講座終了後、手話を使い話すことができる私、手話言語通訳ができる私に成長してもしばらく続いていたように思います。
また本筋からそれたので講座に戻します。
講座は、自己紹介から始まりました。
「私の名前は川根です。よろしくお願いします。」
先生は、次の単語教えてくれます。
「私」「名前」「川」「根」「よろしく」「お願い」
私は、一生懸命、単語を並べ、表現します。
今の私は、「私の名前」の「の」を表現しますが、そんな表現もできず、学習した単語数もごくわずかで、手話で表現する際、重要な表情も表現できないけれども、表情が必要であることを頭で理解した20時間(開校式、修了式含む)でした。
当時の学習の様子を見ることができたとすれば、ロボットがカクカクと表現しているように見えたと思います。
講座の最終日、立派な終了書をいただいた、訥々としか表現できない私の通訳人へのスタートです。
時系列でこの連載をすすめようと思っていたのですが、現在の手話言語通訳制度を紹介した方が制度の変遷などが理解しやすいよ。と、机に置きっぱなしにしていた原稿をチラ見した「山の神」の指摘があり、次回は指摘に従い、(触らぬ神に…)現在の手話通訳制度を紹介します。
川根紀夫(かわね のりお)
手話通訳士。1974年、聴覚障害者福祉と手話言語通訳者の社会的地位の向上のため、手話言語、手話言語通訳や聴覚障害者問題の研究・運動を行う全国組織である「全国手話通訳問題研究会」の誕生に伴い、会員に。1976年、手話言語通訳の出来るケースワーカーとして千葉県佐倉市役所に入職。1989年、第1回手話通訳技能認定(手話通訳士)試験(厚生労働大臣認定)が始まり、1991年には、手話通訳士の資質および専門的技術の向上と、手話通訳制度の発展に寄与することを目的に「一般社団法人(現)日本手話通訳士協会」が設立され、1993年、理事に就任。日本手話通訳学会、日本早期認知症学会、自治体学会に所属。第4回JACI特別功労賞受賞者。