【第10回】駆け出しのころ「回り道はしたけれど」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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皆さんこんにちは。私はイギリス在住の英日通訳者です。私が駆け出しの通訳者だったころを形容すればそれは正に「下積み」。通訳の仕事がほとんどなかったからです。ギターを片手に木枯らしの吹く中、場末のスナックを渡り歩く売れない演歌歌手、を想像してください。今でも思い出すと心臓が重くなります。あの頃の私の頭を「可哀そうに」となでてやりたいような、「ボケッ!」と言って蹴り飛ばしたいような。とにかく、私にとっては辛い辛い期間でした。

私は、2012年1月に初めて通訳エージェントに登録しました。その前年、イギリス人の夫から「はい、次は君の番」と言って家計の担い手というバトンを手渡されていたからです。その時点まで10年以上も専業主婦として子育てに専念していた私ですが、そのとき私は何の迷いもなく通訳者になろうと決めました。そしてイギリスの通訳翻訳エージェント1社に登録し、何の連絡もないまま待つこと数か月。7月になりやっと初めて1週間の案件の打診を頂くことができました。ちょうどロンドンオリンピックの真っ最中とあって、他に誰も通訳者が残っていなかったのでしょう。この案件は、東日本大震災への世界各国からの支援に対するお礼のイベントで、日本の歌手や被災地の皆さんがロンドンで歌や地元の伝統芸能を披露するというものでした。基調講演あり、歌手たちによる楽曲紹介あり、さらには純粋なMC業務あり、と盛りだくさんな(そして舞台上しかも基調講演以外は全てぶっつけ本番という)内容でした。綱渡りのような1週間でしたが、ありがたいことに参加者の方々が私の通訳を気に入って下さり、無事に終えることができました。

この最初の通訳案件で「自分は通訳者に向いているし、この仕事が好きだ!」と自信を持った私は、それからは次々と新しい案件が舞い込むものと期待しました。が、現実は甘くありませんでした。唯一登録していたエージェントから来る通訳の仕事は多くて月に1~2回。通訳をしたくてたまらないのに案件が来ない焦燥感、閉塞感をそれから長い期間味わうことになります。長い間専業主婦だったため、ビジネス界に全く繋がりがなかったことも大きなマイナス要因でした。そんな辛い状況を打開すべく私が選んだ解決策は、人海作戦ならぬ履歴書海作戦でした。通翻ジャーナルなどで調べた100社ほどの日英の通訳エージェントに履歴書を送り登録のお願いをしたのです。

駆け出しのころの坂井裕美
(写真:デビュー2年目頃。鉄道関係の調達商談会にて)

しかし、「履歴書は受け取りました。何かあれば連絡します」とお返事を下さったエージェントは全体の2割。たとえ数年に1回でも実際に仕事を下さるようになったエージェントとなると数社程度でした。その中で、登録の数か月後から数年にわたって1年に何回も仕事を振って下さっていた某エージェントには心より感謝しております。

というわけで、毎月の通訳案件が1~3件という日々は更に続きます。そこで次に私が取った手段はいわゆるcold call。つまり電話営業ですが、私はこれを自分では「どさ周り」と呼んでいます。まだ連絡していない通訳翻訳エージェントの電話番号をオンラインで調べ、勇気を振り絞って数十社に直接電話をし「通訳者として登録させてください」とお願いしました。半分近くの会社が「では履歴書を送ってください」と言ってくださいましたが、実際にお仕事を頂けるようになったのは1~2社です。ちなみに、イギリスで何度かマーケティング講座に参加しましたが、このような電話営業は「決してしてはいけない」と講師に言われました(冷汗)。

しかしそのように案件数が少なくても、2年ほど経つと私の通訳実績表もそこそこ見られるものになってきました。そこで私はこの時点でもう一度履歴書海作戦を展開し、今度はヨーロッパのエージェントに的を絞りました。この作戦の成果も僅か2~3社でしたが、デビュー3年を過ぎる頃には、ヨーロッパのエージェントからも少しだけ仕事を頂けるようになりました。そしてこの時に、ヨーロッパの通訳業界では通訳の学位を持っていることが重視されることに気が付き、遅まきながら会議通訳の修士課程に入学することを決意しました。

坂井写真3「英国の原子力施設にて視察団の通訳」
(写真:英国の原子力施設にて視察団の通訳。著者は右から2番目)

今回この原稿を書くにあたり頂いたお題が「駆け出しの頃の不安や苦労、そしてそれをどう乗り越えたか」です。では私の不安や苦労は上に書いたような努力によって克服されたのでしょうか?残念ながら答えはNoです。何故なら、私はたった一人で狭い井戸の中で溺れそうになりながらもがいていたからです。当時の私は通訳業界でのネットワークを広げるための活動を一切していませんでした。当時はソーシャルメディアも使っていませんでした。後で分かったことですが、唯一加入した日本語通訳者のネットワークでは、なぜか最初の2年間は私のメルアドが一斉メールリストから外れてしまい、job offerなどの情報を受け取ることができませんでした。あまり情報がなかったので、そのネットワークの会合にも出かけませんでした。ですから最初の3年間は、他のイギリス在住の通訳者に会ったこともなかったのです。そのため、繁忙期に他の通訳者から仕事が回ってくることもありませんでした。

ですから通訳者になったばかりの方々は、まずは通訳者の職業団体に加入し、通訳者が集まる場所に顔を出して、通訳業界に自分の存在を知ってもらい、かついろいろな情報を収集するようにしたらよいと思います。どさ周りのような非効率な方法で時間を無駄にする必要はありません。私はその後2015年に会議通訳専攻で大学院に入りました。その同級生たちが全員通訳者になれたわけではありませんが、大学院で培った人脈や得た情報を生かして、卒業後比較的すぐに会議通訳者として始動できた人も何人かいます。私も大学院で得た情報を元に通訳者・翻訳者の職業団体に加わったり他の通訳者と知り合いになったりすることで、仕事量の増加率が加速していきました。

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(写真:映画祭にて斎藤工監督の通訳)

と、ここまで書いてきましたが、このような人脈形成に関するアドバイスはこの記事を読んでいる皆さんには釈迦に説法かと思います。それでは私はこの記事で何が言いたかったのでしょうか?私の大好きな曲の歌詞(宮本浩次さんの「ハレルヤ」より)に代弁してもらいましょう。それは、「強くもなく弱くもなくまんま行け♪」ということ。不安や苦労をすぐに克服できなくても、クライアントの役に立つ通訳を少しづつでも続けていれば、たいていの人がいつかはトンネルから出ることができると思います。私のようにこれほど遠回りをした者でも、今は会議通訳者としてやっていけてます(コロナがあったので「ました」でしょうか)。皆さんも皆さんのまんまで前進を続けて、行くべき場所に近づいていけばよいのではないでしょうか。「何かを克服しなければならない」という呪縛から自分を解き放すことによって見えてくる何か、もあるような気がしている今日この頃です。

坂井裕美(さかい ひろみ) 2012年デビュー
ロンドン在住の英日会議通訳者。証券会社の社内翻訳職およびその後の長い子育て期間を経て2012年よりフリーランスの通訳者として活動中。得意分野は原子力施設の廃止措置、IR、電力全般、舞台芸術。会議通訳修士号の他、ファッションのディプロマと中国語(古典)の学位も保有。プライベートでのライフワークは、ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観続けること。