【第16回】駆け出しのころ「あの甘酸っぱさ、あの出会い、終わった瞬間のあの感覚」
「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。
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堀江貴文氏のスピーチが会場でこだましています。ブースに一緒に入っている先輩通訳者が堀江氏の通訳をしています。次のスピーカーは自分が通訳する番です。心臓の鼓動がドクンドクンと耳に響きます。手には大量の汗。堀江氏のスピーチが終わり、次のスピーカーまでMCが入ります。会場の数百人に自分の声が届くと思うと吐き気が襲ってきました。喉の途中まで上がってきた甘酸っぱい液体をなんとか飲み込み、鼻で深呼吸して、この日のために購入したBANG & OLUFSENのイヤホンを耳にかけました。そして1秒だけ目を閉じました。「絶対できる」自分に言い聞かせます。私が通訳をする登壇者にスポットライトが当てられました。始まりました。身体全体を耳にします 。
2016年10月のTEDxTokyo、忘れもしない私のデビューした頃の通訳です。あれから3年以上が過ぎ、まだまだ駆け出しですが、現在は外資系IT企業で顧客向けのインハウス通訳をしています。
2015~2016年当時、私はITエンジニアをしながら、週に一度呼ばれるかどうかの通訳に魅了され始めていました。ドキュメントを翻訳する機会はありましたが、通訳としての専門的な訓練は本格的に受けたことがありませんでした。今思い返すと穴があったら入りたいのですが、電話会議でプロジェクトマネージャーに依頼され、自己流で通訳もどきのようなものを一生懸命やっているうちに、気づくと言葉の奥深さの魅力に夢中になっていたのです。終わった後に頂く「ありがとう」という言葉にも、他の仕事で頂く感謝の言葉とはまた違う、格別の嬉しさがありました。
ある時、当時通訳を教わっていた方から、ボランティアだけどTEDxTokyoの通訳者をやってみないかという声をかけて頂きました。その瞬間に興奮のあまり「はい」と私は答えていました。ところが「はい」と答えたものの、当時の私はブースにも入ったこともなければ、きちんとした顧客への通訳経験もほぼなかったのです。高校生がプロ野球の試合に出るようなものです。
「はい」と返事をしたのが8月で、本番は10月。2か月の猛特訓が始まりました。香港で企業経営をするフランス人の方の通訳を担当することが決定しました。彼女の動画をYouTubeで検索し、英語と日本語であらゆる角度からグーグル検索して、過去のスピーチ動画にたどりつきました。経営する企業のホームページから彼女のあらゆる言葉を洗い出し、英語を日本語に直すとき必要な表現をノートにまとめていきました。毎日、早朝の4時に起き、その方のスピーチ動画を英語から日本語に直す練習をします。
担当する登壇者のフランス人の方になんとか連絡が取れれば、何かヒントがもらえるかもしれません。しかし、彼女は企業の経営者で誰よりも忙しいことは明らかです。普通にメールを送ってスピーチの内容を少し教えてくれないかと言っても、なかなか返信がもらえないことは容易に予想がつきました。そこで、彼女が日本文化に関連するスピーチをするという情報をTEDxの主催者から聞いていた私は、「日本の文化について話すとお聞きしております。TEDx会場近くに住んでいる日本人として何かお手伝いできることがあれば何でもご相談ください。」と連絡を取ってみることにしました。
嬉しいメールの返信が次の日にありました。驚くことに、彼女から「何を話そうかまだかなり迷っている」という返事があったのです。私は、「何か力になれるかもしれないから、スカイプで一緒に話す内容を考えませんか。」と提案をしました。数日後スカイプで話しました。しかしここでまた、困ることが起きました。素晴らしい内容を話してくれるのですが、日本の聴衆に話すということを意識しすぎるあまり、彼女が心から伝えたいメッセージが伝わってきませんでした。登壇する経営者に、ただの通訳が正直に感想を伝えて良いものかと戸惑いましたが、思い切って正直な感想を伝えることにしました。「あなた自身が本当に伝えたいメッセージが伝わってこない」と。すると彼女も、「実は、今のスピーチの内容には自分でも違和感がある」と悩みを打ち明けてくれたのです。こんなことがあるのだろうかと思いながら、二人のやりとりが始まりました。一緒にブレインストーミングしたスピーチの内容を通訳できないはずはありません。
リハーサルの当日は、登壇する彼女とやっと会えた嬉しさが、プレッシャーよりも勝っていました。翌日、本番の朝は落ち着いて迎えることができました。それでも本番が近づくにつれて緊張は次第に大きくなってきます。通訳が始まってしまえば、もう必死にやるしかありません。無我夢中でした。もちろん全部うまく通訳できたわけではありません。思うように表現できなかった箇所も多々あり、悔しさが残りました。しかし、任務をなんとか投げ出さずに完了し、心からホッとしました。
フリーランスやインハウス通訳が通常業務でここまで準備ができるのか、話し手に直接連絡ができるのかというと、できないことは明らかです。臨機応変に通訳ができるよう、オファーを頂いたときに自信をもって受けられるよう、日々トレーニングに励んでいます。ただ通訳の直前で味わったあの甘酸っぱさ、あの出会い、そして通訳が終わった瞬間のあの感覚は今も忘れることができません。
井上龍太郎(いのうえ りゅうたろう) 2016年デビュー
University College London大学院を卒業後、高校教師、ITエンジニアを経て外資系IT企業でインハウス通訳者に。現在はインドのオフショア開発においてインド人コンサルタントと日本の顧客をつなぐ通訳に従事。IT、通信、自動車、飲料メーカー、保険業界の通訳を経験。フリーランスを目指して通訳スクールに通いながら日々トレーニング中。趣味はプログラミング(PHP)と米国株投資とインドカレーの食べ歩き。猫派。