【第18回】駆け出しのころ「失敗もすべて糧になる」
「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。
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「通訳の仕事をしています」というと、「じゃあ英文科ですか?」と聞かれることも多いのですが、初めから通訳という仕事を目指していたわけではありません。大学は法学部、大学院では古いギリシャ語の聖書写本から原文に近いものを調べるという地味な作業をしていました(今はすっかり忘れてしまい、読めません……)。そんな私が初めて仕事として通訳に関わったのは、大学院を卒業後、沖縄県庁の嘱託通訳・翻訳官として採用されたのがきっかけでした。
就職氷河期に京都で大学時代を過ごした後、卒業後も明確なキャリアプランがなく、しばらく地元沖縄の学習塾や予備校で文系教科を教え、軍資金を貯めた後に大学院留学のため渡米しました。教育に興味があったので、帰国後は専門学校で正社員として働き始めました。学生の成長に関わることができる講師という仕事は好きだったのですが、不完全燃焼のモヤモヤ感がありました。「自分は成長しているのだろうか」と自問する毎日。そんな時に偶然、沖縄県庁で通訳・翻訳職の求人があることを知り、採用試験を受け合格。ここで初めて通訳としての一歩を踏み出すことになったのです。
沖縄県には日本にある米軍基地の約70%が集中しているという特殊な環境から、県庁には「基地対策課」という、在沖米軍から派生する諸問題に対処する課があります。私が勤務していた当時は嘱託通訳・翻訳は2名体制で、業務の80%以上は翻訳。通訳の比重は低く、日々通訳の実践!というわけではありませんでした。それなのに、いざ通訳が必要となるのは、表敬訪問や事件事故の際の抗議・要請、四軍と外務省を交えての会議など、マスコミが入ることも多い、緊張する場が多くありました。ろくに通訳訓練を受けていないのに、今考えるとよくやった(いや、そんなのでよくやれた……)と冷や汗とともに思い出します。すべて逐次通訳だったのですが、つきささるような視線の中、どうしても単語が思い出せなかったり、数字を思いきり間違えたり、あまりにお粗末で恥ずかしい経験もたくさんしました。米軍側の通訳者の滑らかな訳出を聞き、今すぐこの場から走って逃げたい!と思ったこともありました。おそらく、東京のようにスキルの高い通訳者が多いわけでもなく、沖縄というゆるい環境の中だからこそクビにならず許されたのでしょう。
数ある失敗談の中でも、(忘れたくても)忘れられないのが「ハトの羽事件」です。その日は、基地の司令官交代式があり、県の幹部も招かれていたので同行することになっていました。アテンド通訳程度ということで、軍の階級表や関係者の名前を手のひらサイズに縮小コピーしたリストなどを準備し当日になりました。偶然、幹部とは同じ町内に住んでいたので、待ち合わせは幹部の自宅近くということでした。地元だし、場所は分かっているという気のゆるみがあったのか、気づくと時間に余裕のない移動となってしまいました。待ち合わせ場所がある住宅地の中に入るとそこは迷路のようで、ぐるぐる回っているうちに時間が……。携帯電話で、すでに到着していた担当職員と連絡を取りつつ、焦りまくり、沖縄の熱い太陽に照らされながら、説明された場所までダッシュでどうにかたどり着くことができました。
公用車にはすでに幹部も乗っています。「遅れてしまいすみません!!」と乗り込むと同時に、汗だくになっていることに気づき、バッグを開くと、ない……。この日に限ってハンカチを忘れているではないか。しかし、額から流れる汗を拭かなくては。ごそごそ探すと、ポケットティッシュが出てきたので、それでふきふき。ぐちゃぐちゃになったティッシュをバッグの内ポケットに押し込み、平静を装いながら、あとは涼しい車内で一息つき現場に向かいました。予想通り、新旧司令官や在沖米国総領事、その他関係者との短い挨拶や立ち話程度で業務は終わりました。その後、県庁へ戻り、自分の席に行くと、隣の同僚通訳の先輩が「なっちゃん、おでこの端に何かついてる。ハトの羽じゃないよね。」と何かをつまんで取り上げると…なんと、乾いたティッシュの切れ端が!「これ、ティッシュ…」と私が言うと、先輩は爆笑(注:沖縄ではこういうとき、基本笑います。失礼なことではありません)。汗を拭いたときに破れたのが乾いてそのままくっついていいたようです(この状態で通訳していたんだ……ガーン)。微妙な場所についていたので誰も教えてくれなかったのかしら。いや、そもそも通訳は黒子。誰も通訳の顔なんて見てないわ、と自分を慰めつつ、学びました。①どんな時にも仕事には時間に余裕をもって到着する、②ハンカチ・手鏡は常に鞄に入れておく。皆さんもお気をつけて。
駆け出し時代は苦労と赤っ恥の連続のように聞こえますが、働く環境にはとても恵まれていました。当時、沖縄県庁には、基地対策課以外にも、知事専属の通訳、国際交流課の通訳、県の文書等の翻訳を担う交流員と呼ばれる外国人の職員が数名いました。皆、20代と若く仲が良かったので、よく飲みにもいき、仕事では切磋琢磨できました。東京で本格的な通訳訓練を受けてきた知事通訳が指導してくれることもありました。(そして、東京での厳しさについて聞き、震えあがりました… )お互い翻訳をチェックし合うだけでなく、現場での通訳が終わったあと率直なフィードバックをくれたり、あまりの不出来に廊下の隅で涙を流しているのを慰めてくれたり。それぞれ言語へのこだわりが強く、よい意味での競争相手である彼らの存在にどんなに助けられたことか。地味な訓練を積み上げても、結果がすぐには表れない厳しい通訳の世界で、このような仲間の存在は貴重です。
その後、東京の通訳学校で学ぶ機会があり、上京することになりました。駆け出しのステージから抜け出し、中堅くらいにはなってみたかったのですが、子育てによる5年以上のブランクで、技術的にまた駆け出しに逆戻りという経験もしました。ライフスタイルの変化と共に、通訳業務の内容も変わってきました。これからも出会う人たちとのご縁を大切にしながら、ゆっくりではありますが通訳道を歩き続けていきたいです。
寺山なつみ(てらやま なつみ) 2005年デビュー
千葉在住。米国の大学院で学んだあと、地元沖縄に戻り、沖縄県庁基地対策課の通訳・翻訳官として採用されたのをきっかけに通訳の道へ。捜査・法廷通訳、外資系保険会社での社内通訳、大学講師などを経験。出産・育児で通訳業を5年以上離れるが、子供の成長に合わせて少しずつ現場へ復帰。現在は捜査通訳、在宅翻訳を中心に稼働中。