【第19回】駆け出しのころ「出来心と前髪のない女神に導かれて」
「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。
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通訳学校に入ったのは、間もなく38歳になろうという秋でした。
その4年ほど前、転勤族の夫と結婚するため、定年まで安泰のはずの公務員を辞めて上京しました。バブル期に東京で会社員をしていたこともあり、東京で仕事を見つけるつもりでしたが、すぐに妊娠し、そのまま家庭に入ることになりました。幼い娘の世話に追われる日々のうちに、世の中からどんどん取り残されていくような焦燥感が募っていきました。
娘が2歳になり、近くの保育園に週2回預けられることになったので、私も何かを始めようと思いました。何かしたい。でも何を? そこでほんの出来心のように門を叩いたのが、都心の通訳学校でした。まさかこの年から通訳になれるとも思っていなかったのに、なぜ学費が高い通訳学校に? 動機は覚えていませんが、きっとワンオペ育児で正常な思考ができなくなっていて、当時の生活の対極にある世界に触れたかったのでしょう。
帰国子女でも留学経験者でもなく、大人になって趣味で英語を勉強し、やっとTOEIC900点を超えた程度でしたので、通訳学校ではとにかく苦労しました。2人目の妊娠が分かった時には「これで通訳学校を休学できる」と思ったほどです。それなのに、休学したらしたで「これではますます遅れてしまう」と焦りが募り、結局、出産をはさんで1年休んだだけでクラスに復帰しました。土曜日なら夫が子供を見てくれるという算段だったのですが、当時夫は激務で泊まり込みも多く、土曜日の朝、乳飲み子と幼児を彼の職場近くまで連れて行き、徹夜明けの夫に託してクラスに通ったこともありました。
そんな苦労をして5年も通いましたが、進級できずにもがいているうちに沖縄に引っ越すことになりました。沖縄に行くこと自体は大歓迎でしたが、これで私の通訳修業も終わりか、と思いました。
沖縄にも慣れてきた頃、インターネットで那覇にも通訳講座があることを知り、講師に連絡を取ってみました。恩師と呼べるこの男性は、私より一回り若い通訳者で、生粋のバイリンガルでした。後進の指導にも熱心で、通訳技術の指導だけでなく、営業の仕方や現場の心得など、年上の後進でも容赦なくぐいぐい引っ張ってくれました。初めての仕事はこの恩師がくれました。
日本返還前の琉球政府に縁のあるアメリカ人が沖縄を訪問する際の通訳で、公式のレセプションは彼が担当し、私はアテンド部分を任せてもらいました。手当たり次第、考えつく限りの準備をして臨んだものの、自分の通訳の出来にがっくり来たのを覚えています。しかし、授業では経験できない生の仕事の面白さも味わい、「もっとやりたい」と思いました。
恩師から地元エージェントに紹介してもらい、依頼も来るようになりました。自信を持って受けられる仕事は何一つありませんでしたが、何でもやりました。どの仕事も当日までは不安で居ても立ってもいられませんでしたが、逃げ出すわけにもいかないので、家事育児の合間を縫って必死で準備し、開き直って当日を迎えました。沖縄では自家用車で現場に出向くのが普通で、その途中に海が見えることが多く、どんなに不安な気持ちでいても青い海を見ながら車を走らせると気持ちが高揚したものです。無我夢中でこなし、何とか終えた後は、自分の不甲斐なさに打ちのめされながらも、それでもやり遂げた達成感と「次こそは!」という闘志が湧いてくる。この感情のジェットコースターが、いつしか癖になる通訳業の魅力(魔力?)でしょうか?
駆け出し時代の一番の失敗は、どう考えても無謀な難易度の高い仕事を請けてしまったことです。沖縄は通訳者が少ないので、時々びっくりするような(東京だったら絶対に駆け出し通訳者には回ってこないような)仕事の依頼が来ました。今なら「できない仕事を無理して受けると先方にも迷惑がかかる」と思いますが、当時は「フリーランスは依頼を断ったら終わり。まず引き受けて、そこから必死で準備して乗り切るべし」と信じていたので、報酬度外視で何にでも挑戦し、スケジュールが空いていれば(大抵空いていました)断らずに受けていました。でも、その仕事は当時の私にとっては「圏外」の難しい仕事で、背伸びし過ぎた結果、クライアントからクレームが入り、それが大きなトラウマとなったのです。おかげで、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」時期が長く続きました。それでも、その後も仕事やトレーニングを続けているうちに少しずつ傷が癒えてきたのか、今ではこうして振り返ることができるようになりました。
転勤族の夫を持つ定めで、沖縄で仕事を始めてすぐまた東京に戻ることになりました。通訳学校に戻るべきか考えていたところ、沖縄の恩師がまた仕事を紹介してくれました。今度はフルタイムのインハウス。会社員時代はイヤイヤ乗っていた通勤電車も、駆け出しフリーランスには「仕事がある」喜びの方が大きく、満員電車すら嬉しくてしょうがなかったものです。その後も引越しを繰り返し、アメリカにも3年間暮らしました。アメリカ時代は仕事をせず、現地の州立大学の大学院に通ったのですが、出願のための推薦書はまたまた恩師に書いてもらいました。(恩師にはもう足を向けて寝られません!)
帰国後、仕事復帰した時には「もう仕事は来ないかも」と心配でしたが、何だかんだで仕事が頂けているのは、どんな時でも通訳をあきらめずに進んできたからだと思います。振り返って思うのは、言い古された言葉ですが「チャンスの女神には前髪しかない」ということ。私の前に現れたチャンスの神様は、女神でもなく、前髪もなかったような気がしますが(失礼!)、ひたすら恩師についていきました。己の実力を顧みず貪欲に前髪をつかもうとしてやけどをしたこともありましたが、あの頃があるからこそ今の私がある。中年の駆け出しを後押ししてくれた恩師への感謝でこの原稿を結びます。
中井智恵美(なかい ちえみ) 2009年デビュー
早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。メーカー 総合職、地方自治体勤務の後、東京の通訳学校を経て沖縄で通訳デビュー。得意分野はヨガの通訳。テキサス大学エルパソ校大学院にて哲学を履修。翻訳書に『お母さんと赤ちゃんが楽しむベビーヨーガ』(GAIABOOKS、2012年)がある。通訳のかたわら、バイリンガル育児普及のためのブログ「英語という贈り物」も公開中。福岡在住。