【第2回】駆け出しのころ「音楽の都ウィーンでのデビューからワイン通訳になるまで」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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現在はほぼ英語オンリーの会議通訳をしていますが、通訳デビューは音楽の都ウィーンでのドイツ語通訳でした。エアコンのないヨーロッパを猛暑が襲った2003年、あの夏のことは今でも鮮明に覚えています。

夏休みにウィーン国立音楽大学の空き教室を使って行われる音楽セミナー。世界各国から、未来のピアニストやバイオリニストたちが集まります。開校式で代表の挨拶と短期留学のハウスキーピング(事務連絡)を通訳、が初仕事でした。

いま思うとよく引き受けたと思います。当時の私の留学先はドイツ語圏のオーストリアの片田舎にあり、キャンパスが古城というユニークな大学院で、授業や提出レポートは英語。ドイツ語はオーストリアに行ってから語学学校と路上で勉強しました(auf der Straße、日常会話でという意味で、ドイツ語では「路上で」という言葉があります)。現地で2年滞在したころでしたが、それでもまわりの人との1対1の会話や、語学学校でノンネイティブのクラスメイトとの簡単なディスカッションができる程度でした。ただ、音楽セミナーの代表はよく知っている人だったので、ハウスキーピングであれば内容も難しくはないだろうと思って引き受けました。

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(写真:デビューのころ。留学していたオーストリアの大学院時代。著者は前から2列目左端。著書『観光コースでないウィーン』より)

当日、背の高いオーストリア人の方々と並んで、身長157 cmの私が前に。それだけでコントのようでした。通訳を始めたのですが、1文1文にわからない単語が必ずあるので、都度確認が入ります。「なるほど」と私がわかりやすくうなづいてから通訳をはじめるので、それがコントのように面白いのか、セミナー参加者の若い学生さんたちは、笑いながら聞いてくれました。わたしも当時は恥ずかしいと思わず「場を楽しませている」と素敵な勘違いをしていました。そして通訳の後は「やりきった!」と頬を紅潮させて達成感に満ちていました。

このような恵まれた通訳デビューを果たした私でしたが、帰国後は本格的に通訳をするのならトレーニングを受けなければと思い、東京青山のゲーテ・インスティチュートのドイツ語通訳クラス(当時)に通いました。ここで初めての挫折を味わいます。先生はトップクラスで、ドイツから首相や大統領が来日したときに担当される方。この先生からわたしは「降格」のレビューをもらいました。つまり、来期はもうひとつ下のクラスでがんばってね、と。

ここで踏ん張ればよかったのですが、一度諦めました。いろいろ自分に言い訳もしました。ドイツ語通訳は需要が少ない。先生みたいにトップクラスになれればいいけれど、それ以外は仕事がないのではないか。ドイツ人は英語を話すから、ドイツ語より英語がよいのではないか。

しかし、当時の私にとって英語通訳は敷居が高すぎました。帰国子女でもない、英語が飛び抜けてうまいわけでもない、英語圏に留学したこともないのに無理だろう。こわいこわい、と。

しばらく大学で研究員・助教の仕事をしながら、たまに通訳学校に通っていた頃を思い出す日々が続きました。大学の研究室が白い巨塔事件で崩壊したあとも、いくつか仕事を経験しました。まったく英語を使わない仕事をしていた時期も長いです。どれもそつなくこなせるのですが、いつも仮の姿だという気持ちでいました。持てるエネルギーの20%くらいで生きている感覚でした。若いのにもったいない、何か全力で打ち込めるものが欲しい、心の底では常にそう感じていたように思います。

ドイツ語の通訳クラスを離れてから5年後、やはりこのままでは嫌だ、もう一度挑戦しよう、と思って久しく離れていた英語を勉強しなおしました。1か月準備をしてTOEICを受けてみたら940点。あれ?意外といけるのでは?通訳者の基準からは低いですが、通訳者になる準備をするには十分な英語力だと思いました。

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(写真:留学先の村では音楽隊に参加。この経験がウィーンでの初仕事につながる。著者は前列中心の太鼓を持った一番小さな子供の真後ろ。著書『観光コースでないウィーン』より)

そこから英語の通訳学校に通い、クラスメイトに教えてもらったエージェントに登録して、少しづつ仕事を始めました。ドイツ語よりも英語の通訳は緊張しました。英語がわかる人はたくさんいるので、通訳をチェックされながらの仕事になるからです。ドイツ語の時のような「何をいっているの?教えて?」という頼られる雰囲気はなく、間違いなくスピーディに言葉を出していくことが当たり前のように求められます。最初は毎回「参加者が終始無言だったらよいのに」と思いながら現場に入っていました。それだけ神経を使っていたのだと思います。

英語圏で生活をしたことがない、というコンプレックスは残りました。帰国子女でもない、得意分野もない、これでは生き残れない。何か得意分野をつくろう!と思い、海外出張で興味をもったワインの勉強をはじめたのが2013年。農学部卒業だった!とリケジョの刀を振りかざしてブドウ栽培からワイン醸造、テイスティングからワインのマーケティングまでを一通り勉強して、日本ソムリエ協会のワインエキスパート資格を取得しました。イギリスのワイン資格であるWSETのテストにも合格しました。

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(写真:国立ワイン庁のワインセミナー通訳中の筆者)

ひとつ得意分野ができると気持ちに余裕が生まれます。現場の通訳はワインに関するものばかりでなく、いわゆる一般的な業種のものの方が多いですが、経験を積むことでそれも一つひとつ得意分野に近づいていきます。

かなりの遠回りをしましたが、今ではブースに入り同時通訳もこなすようになりました。ウィーンで、みんなの前でコントのように1文ごとにキョトンとして、確認しながら通訳をしていた時は、まさかここまでこれるとは思っていませんでした。

でも、通訳をしているときが一番「生きてる!楽しい!」と思うのは、あの時も今も同じです。これからも、どんな時代でも通訳の仕事が続けられるように、変化に対応しながら、日々成長していきたいと思っています。


松岡由季(まつおか ゆき) 2011年デビュー
通訳者。日本ソムリエ協会ワインエキスパート。ドイツワイン協会ドイツワインケナー。ドイツ語圏のオーストリアに3年滞在。帰国後本格的に通訳を目指す。北海道大学卒。再生医療工学研究室で研究員・助教の経験もあり。著書に『観光コースでないウィーン』(高文研)