【第25回】駆け出しのころ「40歳で訪れた人生2度目の転機」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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人生ちょうど半世紀、振り返ると大きな転機は2度ありました。渡米した20代前半と通訳をスタートした40歳。「昔少し憧れてはいたがすっかり諦めていた」会議通訳という仕事。ひょんなことから一度その舞台に立ったが最後、もう後戻りができなくなってしまいました。

社内通訳時代と専業主婦時代
20代後半に社内通訳の仕事に就き、取締役会議で通訳したり技術文書の翻訳をしました。当時夜間の翻訳学校に通ったことが今に繋がっています。

夫の会社の経営が上手くいき、郊外に家を買ったのをきっかけに引っ越しのため退職。趣味はインテリアと料理、週末には大勢の友人家族を招待して庭でプールパーティを開くというぬるま湯専業主婦生活に丸5年間どっぷりと浸かっていました。

40歳を目前に下の子が幼稚園年長になって時間ができ、せっかくアメリカの大学で頑張って勉強したのに何の役にも立っていないことに愕然とし、キャリア再開を考え始めました。ちょうど学生時代の旧友が起業し、在宅で翻訳する機会をもらいました。おかげで働くことの楽しさを再認識するようになり、やるならプロとしてと思いフリーランスになりました。

突然の母の死
翻訳も少しずつ軌道に乗り始めた頃、60代前半だった母が急に亡くなりました。離婚後私と弟を女手一つで育て、何度もアメリカに来ては私の子育てを手伝ってくれていた元気で社交的な母。心配させるからと深刻な癌であることは知らされていませんでした。悲しみのどん底にいた私に高校の同級生が「親孝行してあげられなかったと後悔するより、充実した人生を生きることが一番の恩返しだと思うよ」と言ってくれました。その言葉に励まされ、いつか母に天国で自慢の娘と思ってもらおう、その為に頑張ろうと思えるようになりました。

通訳デビューは思いがけず
それからすぐ、翻訳の仕事をくれていた旧友から同時通訳の依頼がありました。深く考えず引き受けたものの、どう考えてもムリ。藁をもつかむ想いでオンラインでマンツーマンの同通訓練を受けました。2名体制が普通とも知らず2日間ひとりという、今から思えば破天荒なデビュー戦でした。

Two people standing in front of a microphone

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東京国際フォーラムでの通訳デビュー 必死のパッチで逐次通訳

応急措置として講演者に原稿を書いてもらい翻訳、質疑応答は逐次に切り替え何とか乗り切りました。緊張したけれど終了後に講演者の一人から「通訳を本格的に目指すべき」と言ってもらい、自分でも「ひょっとしたら私にもできるかもしれない」と手ごたえを感じました。

いばらの道は険しい
通訳の仕事は来るがスキルが足りないというジレンマを抱えながらも電話通訳会社に登録し毎日実践できるような環境をつくりました。

通訳案件が増えてくると今度は翻訳をする時間がなくなってきました。そこでワークショップを開き翻訳者になるためのノウハウを伝え、優秀な新人を発掘する機会にしました。やがて翻訳者のプールが増え今のプロ養成講座へと発展するのですが、当時は試行錯誤の状態でした。

情報発信を意識し始めたのもこの頃です。ブログやHPを立ち上げ、SNSで活動内容を共有しました。同業者からはちょっと変わったことをしている通訳者という目で見られていたのか、先輩に「競合を増やすような真似して」とか「業界の慣習を乱すようなことはするな」的な忠告をされたこともあります。逆に応援してくれる人の方が多かったのが救いでした。

A person sitting at a table

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デビュー戦から2~3年は毎年ソロでこなした旧友の同通案件

喉から手が出るほど通訳になりたい
産業翻訳を中心に出版や映像にもトライし、次第に技術も自信もついてきました。でも通訳現場に出ては緊張したり、ミスを指摘されて落ち込んだりも。上手くできても誰も褒めてくれず、準備にかける時間もハンパない、時に地味で理不尽な仕事だと感じました。

それでもこの仕事に大きな魅力を感じていたので目標を叶えたいという気持ちは逆に強くなっていきました。当時のノートに「ここで諦めるか否かが数年後の自分を変える。あきらめなかった人が今プロとして活躍できている人だ。」と記されています。

A group of people sitting at a table

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2014年北太平洋海上保安機関長官級サミット 初めての5言語リレー

10年間プランと目標への近道
何年以内にどんな仕事をするなど具体的なプランを決め、そこから逆算してじゃあ今月はこれくらいの仕事量と収入を得ようと細かく決めて実行しました。翻訳と同じように未開拓分野の案件にもなるべく挑戦しました。実績が欲しくて僻地への出張にも行きました。ぬるま湯時代から想像できないほど仕事を優先していたので子供の入学式や卒業式もほぼ出席したことがなかったほどです。

プランを見返してみると予定よりも実現が早いです。早い段階から国際会議や国連本部の大臣級会合などタイミングよく次のステップに必要な仕事が舞い込んできました。難しい仕事でも大きくコケることがなかったのは、きっとあの世で頑張って私を応援してくれている母のおかげかも知れません。

他に意識したのは、通訳はサービス業と捉えて常にクライアントの視点で動くこと、現場では120%の力を出す事。ひとつひとつの仕事を大切に積み上げていくイメージです。

早めにスタッフを採用したことが結果的に通訳実績のスピードアップに繋がりました。小さくても会社経営となると雑務が増えて大変な印象ですが、じつはその逆。請求書の処理や事務など苦手なタスクを優秀なスタッフに任せるようにしてからは自分が得意とする通訳や講師としての業務に集中できています。私なしでも大型の翻訳プロジェクトや講座プログラムが回る「仕組み」をつくったからこそ、自分のやりたいことができるようになったのです。

これまでに訪れた人生の転機は点と点でつながっています。20代で渡米し社内通訳者として働いた経験。そして40歳でタイミングよく旧友が連絡してこなければ、いやそもそも学生時代に出会ってなければ今の自分はいなかったはず。今でも毎年同時通訳の仕事は引き受けています。ちゃんと2名体制で!

このエッセイを書くにあたり、デビュー当時に書き留めていたノートを紐解いてみました。40歳の転機からあっと言う間の10年、夢中でこなしてきた通訳案件はおびただしい数になります。途中で色んな方から助言や応援をいただき、家族に支えられてやっと自分なりに成長してきたように感じます。寝不足のまま薄暗い道を現場に向かったことも数え切れず、幼い子供たちを置いて日本出張に向かう空港で泣いたこともあります。でも不思議と「やめたい」と思ったことは一度もなかった。コミュニケーションの橋渡しという重要な役を全うできた時の充実感がまた明日も頑張ろうと背中を押してくれるからです。

当時の自分に伝えるとすれば「あきらめさえしなければ、大抵のことは実現できる」ということでしょうか。そして実現するまでプロセスがじつは一番エキサイティングだったりするのです。

これからも紆余曲折は続くでしょう。だからこそ成長できる、だからこそ面白い。また人生の転機が訪れるかもしれませんが、それまでは全力投球を続けたいです。

A person sitting at a desk

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2017年から年に1~2度NY国連本部で同通業務

ブラッドリー 純子(ブラッドリー じゅんこ) 2010年デビュー

会議通訳者、EJ EXPERT Inc.代表。日本で美大を卒業後、20代前半で渡米。カリフォルニアの大学で4年間経営マネジメントを学ぶ。ソニーやトヨタなどの日系企業で社内通訳者として勤務し、夜間の翻訳学校で全課程を終了。フランチャイズ事業の経営や専業主婦を経てEJ EXPERT Inc.を創立し、翻訳、通訳、同通機材レンタル、プロ養成などの事業に携わる。現在は会社経営の傍ら、会議通訳者として主にIT企業、日本の大手企業や官公庁、州・連邦政府機関など中心にアメリカ国内や海外で国際会議などを手掛ける。RSI(遠隔同時通訳)の実績も豊富。オンラインのプロ養成プログラムやセミナーは2020年現在で延べ800名以上が受講している。カリフォルニア州サクラメント郊外に夫と子供二人と在住。

会社HP  https://www.ejexpert.com/home-jp
ブログ https://ameblo.jp/tsu-honyaku/