【第27回】駆け出しのころ「危機をチャンスに。学びに終わりはありません」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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高校を卒業する日、母にいきなり「航空券買ったから明日ペルーに帰って」と言われました。来日して6年間、どんなに母国に帰りたかったか。とはいえ、あまりに突然で唖然としました。

翌日、成田空港で母は首かけのパスポートケースを買い、そこにパスポートではなく200ドルを入れました。紐を私の首にかけ、ケースは服の下に隠しました。ペルーに着いてからも、買い物に行くときは財布ではなく首掛けケースを服の下に隠してお金を持ち歩きました。

時は1997年。在ペルー日本大使公邸占拠事件の真最中でした。1996年12月17日の夜、首都リマの日本大使公邸で行われていた天皇誕生日祝賀会に武装したテロリストがなだれ込み、日本大使を含む各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員ら約600人が人質にされた事件です。

そんなところに母は未成年の私を一人で送りこんだのです。それは、私が優秀な高校生でなかった上、喘息で入院生活を強いられて進路が決まらないまま卒業してしまったためです。

入院中に事件のことは聞いていたものの、まさか現地に行くことになるとは夢にも思いませんでした。現地では日本語ができる人が必要とされているでしょうから私に働き先ができると母は思ったようです。まさに「危機をチャンスに」です。

リマに到着して早速日秘文化会館に行くと、受付の女性に「共同通信という報道機関が日本語とスペイン語のできる人を探しています」と教えてもらい、電話番号が書かれた紙きれを渡されました。電話を掛けるとその日の午後に面接となり、翌日から私は記者通訳をすることになりました。

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ペルー外務省発行海外報道陣通行証

事務所として使われていた三ツ星ホテルの部屋には何人もの記者が机を並べて座り、仕事していました。私以外に英語の通訳もいました。私の仕事は人質の家族に電話をかけたり(拒否されるのをわかっていても)、現地ラジオのニュースを記者と一緒に聞いたり、現地の新聞の翻訳を手伝ったり、取材に出かける記者について行き通訳をすることでした(現地の英語通訳が行きたがらないスラム街について行くのも仕事でした)。

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左は私、右は英語通訳、壁には人質になっていた日本人の写真

そこで私は気づきました。日本語とスペイン語が理解できても新聞を訳せないこと、取材について行ってもうまく通訳ができないことに。

4月22日の午後、いつものように公邸の中継映像を見ていると突然爆発音が聞こえてきました。画面からは軍隊に爆破される公邸の衝撃的な映像が流れてきました。記者数名は慌ててホテルを飛び出し、私も一緒に現場に向かいました。とはいえ立ち入り禁止となっていたため、公邸の外で人質が出て来るのを記者たちと待ちました。これにて人質事件は終わり、私の記者通訳の仕事も幕を閉じたのです。

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背景は今では更地となった日本大使公邸。右下は共同通信のカメラマンの写真レンズ。
この日は橋本総理大臣が来るというので構えていた。

この日を境に記者たちは各国の支局に戻り、私はプロの通訳者・翻訳者になりたい気持ちになっていました。

リマで通訳と翻訳の勉強ができる大学は一か所しかなく、私は3年制の通訳翻訳学校に通うことにしました。あらゆる分野の翻訳と通訳が学べる素敵なカリキュラムでした。まずは付属の予備校に通い、英語、フランス語、スペイン語文法を3カ月間学び、入学試験に合格しました。

まだ予備校生だったある日、朝礼で在校生と一緒に学長の挨拶を聞いていると、突然みんなの前で学長に質問をされました。

「記者通訳を経験した感想を話してください」

私は答えました。

「二つの言葉が話せても、通訳翻訳ができるというわけではないことを学びました」

すると学長はみんなに「そのとおりです。言葉ができることと訳すことは違います」と話しを続けました。先輩たちの前で予備校生が生意気なことを言ってしまったとその時は恥ずかしかったのですが、18歳にして原理を掴んでいたんだなぁと今、我ながら思います。

残念ながらこの学校には通うことありませんでした。事情があって日本に戻ることになりました。

日本に帰ってきてからは、昼間はOLして夜は日英・英日の通訳の学校に通いました。しかし通訳の仕事をする機会が訪れたのはその約20年後でした。それまでは翻訳の方に縁があり、社内翻訳者やチェッカーを得て、翻訳者として開業してから通訳の仕事が何度か舞い込んでくるようになったのです。

なかでも一番刺激的だった通訳の仕事は、2016年に沖縄で行われたペルー外務省海外同胞局公認の「海外ペルー人団体連盟(FEMIP)世界コンベンション」での3日間にわたる通訳でした。エジプトなど各国のペルー大使が集まり、ずっと逢いたかったミュージシャンに会えるなど嬉しいこともあった半面、JETROや領事館のプレゼンが行われるというのに事前に資料を提供してもらえなかったり、一緒に通訳するはずの人が来なかったりと、段取りがカオスでした。でも20年前の自分とは違い、不安よりも自信がありました。国際経済のわからない用語はその場で教えてもらい訳しました。

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ペルー前防衛大臣のスピーチの通訳

私は、若き頃に目指したプロの通訳になれたと思っていました。ところがその3年後、自分に絶望します。

秘密保持のために準備資料を渡すことができないという、役員会の通訳を頼まれたのです。経理の話が出て来ることすら想像していませんでした。幸いお客さんは日本語とスペイン語と英語ができるすごい人でした。私は、準備資料がなくてもちゃんと通訳ができないようでは、プロの通訳とは言えないと反省し、様々な分野の知識をつけると決めました。

日本でのスペイン語通訳の仕事はそう頻繁にはないものの、会計、司法、ガイド、報道など、いろんな場面で通訳が必要です。英語とは違い、一つの分野に拘っていたらほかの分野を訳す人がいません。

挫折をきっかけに私は初心に返り、将来の自分に胸をときめかしながら、日々知識をつけています。学びに終わりはありません。

佐倉 Candy(さくら キャンディ)1997年デビュー

スペイン語とポルトガル語の翻訳通訳者。ペルー生まれの日系四世。子供の頃から英語と国語(スペイン語)が好きで優れた点数を取る。小学校を卒業後、親の出稼ぎを機に来日。日本語がわからないのに地元の中学校に通う。高校卒業前に日本語能力試験一級を取得。社会に出て通訳と翻訳の仕事に携わる。「やりたい」よりも「必要とされているからやるけどやるからにはうまくやりたい」がモチベーション。