【第33回】駆け出しのころ「らせん階段と下りのエスカレーター」
「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。
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私にとって憧れの通訳は遥かかなたでした。 公立の中高でふつうに勉強しただけの英語だったので、外国語に定評のある大学に入ったからといって、それで英語力がぐんと伸びたという訳にはいきません。それでも背伸びをして貯金をはたいて、S社の通訳講座に半年通いました。大学3年の時です。その結果分かったのは、何もかも足りない!私には通訳は無理!という悲しい結論でした。
気を取り直して、その場で通訳するのとは違い、じっくりと時間をかけられる翻訳ならなんとかなるかもしれないと、方向転換して、ノンフィクションの本の下訳の仕事をするようになりました。たとえ名前は出なくても、自分が一部を翻訳した本が書店に並ぶのは、当時の私にはかなり刺激的な出来事で、この喜びが病みつきの始まりでした。絶対に一生仕事を続けようと決意しました。
喜々として原稿用紙を埋める作業に邁進していましたが、振り返ると、原稿用紙を相手に通訳の練習をしていたようなもので、私の英語の土台はこの頃に形成されたと思っています。やがてこの仕事は自分の訳書出版 や、ニューズウィーク 日本版の翻訳スタッフの仕事 につながりました。
その一方、通訳もあきらめきれず、通訳に近い仕事をと思いみつけたのが 、外務省の招待プログラムの「エスコート」です。さまざまな分野の専門家やリーダーに日本を体験してもらうために招待する。議員から画家まで、会見相手が英語を話せば通訳は必要ないけれど、報告書が必要なので、同席してメモをとって報告書をまとめる。それがエスコートの役目の1つです。文化交流に興味があったので、私にはうってつけの仕事でした。エスコートの先には、通訳者に昇格するという道もありました。何より各省庁や筑波の研究所から、歌舞伎や桂離宮、舞台稽古や画家のアトリエまで、本当にさまざまな場所を経験させていただきました。
だんだん慣れて通訳昇格試験を受けましたが、不合格。きちんと訓練を受けた方がよいと先輩のアドバイスがあり、先輩出身のI社の通訳養成コースに入りました。2回目の通訳トレーニングです。2、3年してOJTを経て、通訳としてあちこちに出向くようになりました。こうして 大学生の時に一度はあきらめた「通訳」にようやくたどり着きました。当時の通訳は商談や少人数の会議ばかりでしたが、業界もトピックも毎回違うので、それでも大変でした。なんとかこなせた時の満足感というか充足感というか、これを体験して、ずっと通訳をやっていきたいと強く心に刻みました。人と人の間でコミュニケーションの橋渡しをするという通訳の立ち位置も、性格的に向いていると感じられました。
通訳者を目指して ゆっくりとらせん階段を上ってきた訳ですが、ここぞという時には下りのエスカレーターを駆け上るつもりで必死の努力をしました。例えば、翻訳では自分の最初の訳書を1年がかりで翻訳した時。 通訳では、忘れられない講演会の通訳がありました。
秋の繁忙期には、通訳が足りなくて、実力を超える仕事が入ることがあります。まだOJTから通訳 になったばかりの頃に、講演会の通訳の打診がありました。シカゴの看護学部の先生が看護職のキャリア形成について話す100人の講演会です。内容もとても興味深く読み原稿もあるので 、どんな案件も経験だと思って引き受けていたので、思いきって引き受けました。看護はもちろん初めての分野でしたが、読み原稿を手掛かりにできる限りの準備をして、前日には自分でリハーサルをやって本番に臨みました。
講演会の日は人生でいちばん緊張した一日でした。心臓の鼓動がはっきり聞こえたのを覚えています。始まったらもう無我夢中でしたが、真剣に準備したのが評価されたのか、この看護セミナーは、主催の先生が引退するまで20年以上続くことになりました。
仕事を続けてもよいという夫と出会い、息子も生まれたある日、運命の神様から思いがけないプレゼントが届きました。夫がアメリカの大学に会社から派遣されることになったのです。アメリカの大学で私も学べるかもしれない!奇跡のような展開です。
夫はサンディエゴのカリフォルニア大学に行くことになり、棚ぼたで私も大学に通いました。ビジネス関係の知識が足りないのを痛感していたので、MBAを取るところまではいきませんでしたが、ビジネス関係の基礎科目を勉強しました。ビザの関係で運よく労働許可(work permit)がいただけて、おおっぴらに通訳ができるようになりました。日本で時々やっていたホンダの仕事をアメリカでもするようになり、1週間に2度ロサンゼルスに出かけたこともありました。
訴訟関係の会議では、今はアメリカ大使館にいらっしゃるベテランのMさんと組ませていただきました。通訳そのものだけでなく、通訳者とはどうあるべきなのか、素晴らしいモデルでした。まるでMさんの個人指導を受けながら通訳していたようなもので、荒っぽかった通訳が少しずつ精度が上がったと思います。
子育てしながら通訳と大学の2年はあっという間に過ぎました。日本では知識でしかなかった季節ごとの行事もリアルな経験となりました。帰国してからは、元のエージェントからもどんどん仕事が頂けるようになり、懸案の同時通訳にもチャレンジするようになって、プロの通訳者になったと思えるようになりました。大学卒業からは10年どころではない月日が流れた訳ですが、経験したすべてのことが血となり肉となっています。
らせん階段をゆっくりと上りながら、ここぞという時には下りのエスカレーターを駆け上るつもりで必死に努力をして…その繰り返しは今でも続いています。
伊藤 恵子(いとう けいこ) 1985年デビュー
都立高校から上智大学に進む。出版翻訳、ニューズウィーク日本版の翻訳スタッフなどを経て、フリーランスの通訳に。米国滞在中も運よく労働許可を得て通訳に従事。文系出身ながら技術系に興味あり。製造業全般、IT、通信、自動車、QCQA、ビジネス全般、看護・医療、映像翻訳。健康管理士。美術と宇宙大好き。横浜在住。