【第1回】チャーリーの金融英語「MMT(Modern Monetary Theory)をどう訳す?」

金融翻訳者のチャーリーこと鈴木立哉さんが、様々な金融用語の背景を紹介し、翻訳者としてどのような思考過程で訳語を考えたのかを解説する新連載(不定期)です。プロの思考法をお楽しみください!


次に紹介するのは、3月の金融政策決定会合後に開かれた黒田日銀総裁の記者会見(3月15日)の一部である。

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(問)総裁ご存知のように、MMT(Modern Monetary Theory)というのがアメリカ・欧州の方でも議論されているようなのですが、これについての総裁の考え方をお願いします。というのも、日本では成功しているじゃないか、とおっしゃっている専門家の方もいるものですから、どうぞ宜しくお願い致します。

(答)MMT(Modern Monetary Theory)は、最近米国で色々議論されているということは承知していますが、必ずしも整合的に体系化された理論ではなくて、色々な学者がそれに類した主張をされているということだと思います。そのうえで、それらの方が言っておられる基本的な考え方というのは、自国通貨建て政府債務はデフォルトしないため、財政政策は、財政赤字や債務残高などを考慮せずに、景気安定化に専念すべきだ、ということのようです。ただ、こうした財政赤字や債務残高を考慮しないという考え方は、極端な主張だと思いますし、米国の学界でも非常に少数の意見であり、広く受け入れられた考えではないと思っています。

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今年に入ってから「訳せ」と渡された原文に“MMT”。何それ?と思われた翻訳者は多いかも。見知らぬものを見かけるとまず訳語は?と考えて、「原典」「定訳」に近そうなところを追っていくと日銀ホームページ。当たりかな・・・と思いきや原文のまま。いやまだ定訳がないのかもしれない。と思いながら、ここは「MMT」と仮置きして先に進む。

さてMMTとは何か? と今度は背景や内容を知るために検索してみると、要は「財政赤字は悪ではない」ということ。「自国通貨建ての借金は紙幣を印刷すれば返済できるのだから、いくら財政赤字が膨らんだところで、それを増税で補う必要はない。インフレを引き起こす事態にでもならない限り、気にする必要がない」という意味らしい(「財政赤字を容認する「MMT理論」は一理あるが、やはり危険な理由」)。

MMTの主な提唱者はニューヨーク州立大学のステファニー・ケルトン(Stephanie Kelton)NY州立大学教授。バーニー・サンダース上院議員(民主党)が2016年の大統領選挙に立候補した時の経済アドバイザーとなり、「財政赤字の拡大を一時的に容認してでも格差を是正する方が政策順位は高い、という主張の理論武装としてMMTが用いられた」(財政拡大容認論「MMT」台頭に投資家はどう備えるべきか)。

今度は英文で追ってみるとブルームバーグ・ニュースに行き当たる。“MMT Has Been Around for Decades. Here’s Why It Just Caught Fire

この記事では、MMTを異端的な議論としながらも、(1)米国は既に赤字だが、米ドルを刷り続けられるのだからデフォルト(債務不履行)にはならない。(2)トランプ大統領は赤字財政を拡大して高い経済成長率を達成した、(3)赤字分は低コストの国債発行で十分まかなえる、(4)トランプ大統領の経済政策アドバイザーのラリー・クドロー氏の “I don’t think good growth policies have to obsess, necessarily, about the budget deficit,” という意見を紹介して、Trump Factorも無視できないとしている。さらに(5)The country that’s probably come closest to deploying the full MMT toolkit is Japan, where interest rates hit zero 20 years ago and public debt — partly financed by the central bank — is now almost 2 1/2 times the size of the economy.”と。日本は低金利を背景に大量の国債発行を続けているのに低インフレ率が続き、低成長ながら景気後退には陥って居らず、財政破綻していないじゃないか、という見解か。

もっとも、主流派はこの主張を相手にしていない。実際、ブラックロックの最高経営責任者(CEO)、ラリー・フィンク氏は、“Deficits are going to be driving interest rates much higher,”としてMMTを“garbage.”、ラリー・サマーズ元財務長官は“Fallacious at multiple levels,”と表現。ノーベル経済学受賞者のポール・クルーグマン氏も同調していると。また別の記事でパウエルFRB議長は、MMTを‘Just Wrong’と述べている(Jerome Powell Says the Concept of MMT Is ‘Just Wrong’  日本語の記事は「「現代金融理論」支持せず、概念は「全く誤り」-パウエルFRB議長」

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冒頭の記者会見は、以上のような潮流を踏まえたもの。改めて読むと、黒田総裁はMMTのポイントと金融界における位置づけを簡潔にまとめていることがわかり一安心。

さて、このModern Monetary Theoryの訳語をどうするか?朝日新聞や週刊エコノミスト、さらにはブルームバーグ日本語版まで「現代金融理論」だ。しかし「金融」ではModern Financial Theoryと混同されそう。現代金融(またはファイナンス)理論はハリー・マコーヴィッツが提唱した現代ポートフォリオ理論のことで、証券アナリスト試験の「証券分析とポートフォリオ・マネジメント」の世界だ。MMTは「(国債を刷って)貨幣量を増やしても問題なし」という論なのだから、これには違和感を持ちたいと!・・・と思いつつ日経新聞を見ると「現代貨幣論」。そこで、多勢に無勢は覚悟の上で「現代貨幣論(MMT)」を初出、その後はMMT。理由をコメントして顧客に提出し、そのまま掲載された次第。所要時間は30分ぐらいか。

最後に、関連として次の用語についても辞典等を引いて知識を整理しておこう(日本語からなら、ジャパン・ナレッジ(有料)やコトバンク(無料)が入り口として信頼できる)。

  • マネタリズム(Monetarism):物価や国民所得の主な変動要因は貨幣量にあるとするマクロ経済理論。シカゴ学派のミルトン・フリードマンが提唱。
  • ヘリコプター・マネー(Helicopter Money):ヘリコプターから現金をばらまくように、中央銀行(政府)が大量の貨幣をひたすら市中に供給する政策。フリードマンが名付け親。関連に「ヘリコプター・ベン(バーナンキ元FRB議長のあだ名)がある。デフレ解消にはヘリコプター・マネーのような大胆な金融政策が必要と主張したことがあるため(An Update On Ben Bernanke’s Helicopter…)。
  • 財政ファイナンス(debt monetization):中央銀行が通貨を増発して国債を引き受けて政府の財政赤字を解消すること。日銀の質的・量的緩和策は財政ファイナンスであるという批判がある。
  • 現代金融理論(現代ファイナンス理論):既述の通り。

ではまた!


鈴木立哉(すずきたつや)

金融翻訳者。あだ名は「チャーリー」。一橋大学社会学部卒。米コロンビア大学ビジネススクール修了(MBA:専攻は会計とファイナンス)。野村證券勤務などを経て、2002年、42歳の時に翻訳者として独立。現在は主にマクロ経済や金融分野のレポート、契約書などの英日翻訳を手がける。訳書に『ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)、『Q思考――シンプルな問いで本質をつかむ思考法』(ダイヤモンド社)、『世界でいちばん大切にしたい会社 コンシャス・カンパニー』(翔泳社)、『ブレイクアウト・ネーションズ』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)など。著書に『金融英語の基礎と応用 すぐに役立つ表現・文例1300』(講談社)。