【第5回】チャーリーの金融英語「何でもやる」
本年4月27日付日本経済新聞に次のような記事が掲載された。
新型コロナウイルスの感染拡大による経済の急速な悪化に対応するため、日銀は27日、追加の金融緩和策を決めた。国債を制限なく購入する姿勢を強調し、金利上昇圧力を抑える。社債などの買い入れ枠を3倍近くに増やし、企業の資金繰りを支援する。米欧の中央銀行はさらに踏み込んだ政策を打ち出しており、日銀も対策の遅れが許されない長期戦が続く。
黒田東彦総裁は会合後の記者会見で「中央銀行ができることは何でもやる」と強調した。債務危機に直面した欧州中央銀行(ECB)のドラギ元総裁が2012年、市場の安定につなげた演説と同じ言葉を使った」*下線部は鈴木
(出所「日銀、危機封じ長期戦 黒田総裁「なんでもやる」2020年4月27日付日本経済新聞電子版https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58562110X20C20A4MM8000/) [注1]
金融翻訳(たぶん通訳も)をやっていると、かつて誰かが言ったか書いた有名な文言に出くわすことが多い。「根拠なき熱狂」(1996年12月25日にグリーンスパン米連邦準備理事会(FRB)議長の演説)、「グリーンスパンの謎」発言(2005年2月26日のグリーンスパン氏による議会証言の内容)、「テーパー癇癪」(バーナンキFRB元議長が2013年5月22日の記者会見で述べた発言を引き金とする国際金融市場の混乱)等々。誰が言ったかが明示され、あるいは引用句で括ってあれば調べる手もあるが、引用句がない場合も多い。本連載の第2回~第4回で触れた「労働市場のスラック」は普通の言葉なので、これが翻訳や通訳ならばそのままスルッと「労働市場の緩み」と訳して通すこともできるだろうが、元々「あの、イエレンさんの言葉か!」と言うことを知っていれば、あえて「スラック」と言うなど、訳し方も変わってくるかもしれない。
たとえば、上の日経記事、日本銀行のホームページを見ると、黒田総裁は27日、正確には次のように言っている。
……そういった意味で、非常に危機的な状況にあることを十分認識しながら、中央銀行としてできることは何でもやる、最大限やる、ということに尽きると思います。
(出所:日銀ホームページ「日本銀行 総裁記者会見要旨 2020年4月27日(月)午後3時半から約70分」https://www.boj.or.jp/announcements/press/kaiken_2020/kk200428a.pdf)
ということはつまり、記事中の下線部「債務危機に直面した欧州中央銀行(ECB)のドラギ元総裁が2012年、市場の安定につなげた演説と同じ言葉を使った」は、そのことを記者が知っていたから書けたわけで、こういうところに記者の「プロ度」が現れるのではないかとも思う(もっとも、総裁記者会見に臨んだ記者であれば、この程度のことは常識であるとは思いますけど)。
では、いったい、ドラギ前総裁は何と言ったのか?(記事にケチをつけるようで申し訳ないが、ドラギさんは2020年6月時点では「元」総裁ではない)。
But there is another message I want to tell you today.
Within our mandate, within our mandate, the ECB is ready to do, whatever it takes, to preserve the euro. And believe me, it will be enough.
(拙訳)もう一つ、本日皆さんにお伝えしておきたいメッセージがあります。
ECBは、我々の責務の範囲内で、そう、我々の責務の範囲内で、ユーロを守るために、あらゆる措置を講じる覚悟であります。そして私を信じて頂きたい。この言葉で十分のはずです。
(原文の出所:欧州中央銀行ホームページ:Verbatim of the remarks made by Mario Draghihttps://www.ecb.europa.eu/press/key/date/2012/html/sp120726.en.html
簡単に背景を説明する。アメリカのリーマン・ショック(2008年9月)が世界金融危機(the Global Financial Crisis, the Great Financial Crisis, GFCと略されることもある)へと一気に拡大したのは周知の通り。欧州各国も当然、大量の不良債権を抱えた銀行を救済するための財政支出で巨大な財政赤字に見舞われた。そこに2009年末、10月に政権交代したばかりのギリシャ政府は、旧与党が財政赤字をごまかしてユーロに参加していたことを暴露し、財政赤字や政府債務がそれまでの公表数字よりも大幅に膨らむと発表してギリシャ国債が暴落。これがいわゆる「ユーロ危機」(European debt crisis:「欧州ソブリン危機」、「欧州債務危機」とも呼ばれる)の始まりで、その後アイルランド、ポルトガルからイタリアやスペインなどの大国へと広がって、ユーロ圏諸国が信用不安、銀行危機、そして財政危機に陥る事態へと発展した。当時、財政状況がとりわけ厳しいポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペインの頭文字を取ったPIIGS、または、イタリアのIを除いたPIGSや、欧州周縁(周辺)諸国(peripheral countries)という言葉を覚えておられる方も多いかも(もっとも、この言葉は豚(Pig)を連想させるので、言葉を入れ替えてGIIPSとする金融機関やマスコミも少なくなかった)。
この事態を受けてECB、欧州連合(EU)、国際通貨基金(IMF)などが協力し、ギリシャ向け金融支援、欧州金融安定基金(EFSF)の規模拡大、民間銀行へのストレステストの結果に基づく金融機関の資本増強、LTRO(長期流動性供給)、SMP(証券市場プログラム)をはじめ様々な方策が講じられたがさしたる効果が上がらず、財政赤字や財務残高も拡大、銀行経営状態も一段と悪化。2011年中にはPIIGSの5カ国すべてで政権交代が起きる事態に発展する。危機の連鎖を受けてユーロ圏崩壊も取り沙汰され、欧州金融市場では悲観ムードが蔓延していた。
ドラギ氏の「あらゆる措置を講じる=何でもやる」発言はこうした雰囲気の中で市場を直撃した。2012年7月26日にロンドンで開催されたグローバル・インベストメント・カンファレンスでなされた発言を受けてユーロ相場は急騰、株式市場も暴騰する。
(図表1) ユーロ/米ドルの週足チャート(2012年)
そして同年9月6日の政策理事会において、ECBは国債買い切りプログラム(OMT)の導入を決定。一定の条件を満たした国の短・中期(残存1~3年)のユーロ加盟国の国債を「無制限に」購入するという内容で、これが7月にドラギ総裁が「あらゆる措置を講じる」といった中身であることがこの時にわかるのだ。まずは口先介入で期待感を高め、現実の政策をぶつける。こうした経緯を経てユーロは安定に向かい、当時最も恐れられていたユーロ崩壊から欧州崩壊の危機はひとまず去ったのである。[注2]
(図表2)ユーロ圏インフレ率とユーロ相場の推移(2011~2019年)
(図表3)ユーロ圏主要国国内総生産(GDP)成長率の推移(2004~2018年)
この発言と施策のタッグマッチは「市場との対話(「コミュニケーション」とカタカナで言われることも多い)」を得意とするマリオ・ドラギ氏の面目躍如、まさに「ドラギ・マジック」と言え、Financial Times紙はこの時の発言と判断を理由に、ドラギ氏を「FT Person of the Year」に選出した(FT Person of the Year: Mario Draghi ‘Whatever it takes’: the Italian determined to save the euro)
実は、「何でもやる」発言はアドリブで、しかもどのような話をするかという事前調整はあったのだが、具体的にどのような文言で話すかは、周囲は知らされていなかったらしい。
Mr. Draghi’s advisers had been forewarned that he was preparing to make a forthright statement, but none had been apprised of the precise wording. In retrospect, the July declaration – which in effect dared financial markets to challenge the ECB’s unlimited firepower – may well be seen as a turning point in the three-year-old crisis.
(拙訳)ドラギ氏のアドバイザーたちは、率直な意見を表明するつもりだとは事前に聞いていたものの、誰も正確な文言までは知らされていなかった。今から振り返ると、7月のあの宣言は、事実上、ECBの無限の射撃能力に挑戦してみろと金融市場に迫る形となったわけで、(2009年末以来)3年間続いてきた危機の転換点と見ることができるかもしれない。
(原文の出所:FT Person of the Year: Mario Draghi―‘Whatever it takes’: the Italian determined to save the euro, Lionel Barber and Michael Steen DECEMBER 14 2012, Financial Times
https://www.ft.com/content/8fca75b8-4535-11e2-838f-00144feabdc0
確かに、ECBの中央銀行のホームページでも、Verbatim of the remarks made by Mario Draghiと書いてある。Verbatimとは「言葉通りの、一字一句変えずに」という意味だ。
我々は経済や金融の専門家ではないし、原文を目にしてから訳すまでの時間にも限りがある(通訳の皆さんは、「その場」ということも多いのでしょうね)。だからこうした有名な「引用されそうな文言」については、時間のあるときに調べておくと、「それを知っている」だけでも、少しは余裕のある翻訳(通訳)ができるのではないだろうか。
ドラギ氏の歴史的スピーチをご覧になりたい方はこちらをどうぞ(11分のうち、上記発言は7分から)。時々手元の紙に目をやりますが、もちろんプロンプターを使うことなく、極めて肩の力の抜けた、聴衆に語りかけるような力強いスピーチです。
(余談1)ドラギ氏がスピーチの中で繰り返した、”Within our mandate”について
1. ECBのMandate(責務)とは何か?
ECBのホームページのMonetary Policyのトップに次の記述がある。
The primary objective of the ECB’s monetary policy is to maintain price stability. The ECB aims at inflation rates of below, but close to, 2% over the medium term.
(拙訳)ECBの金融政策における第一の目的は物価の安定である。ECBは、中期にわたって、物価上昇率を2%未満だがその近辺に維持することを目標にしている。
(原文の出所:欧州中央銀行ホームページhttps://www.ecb.europa.eu/mopo/html/index.en.html#:~:text=The%20primary%20objective%20of%20the,2%25%20over%20the%20medium%20term. )
2.米連邦準備理事会(FRB)のMandate(責務)とは何か?
FRBのMonetary Policyの冒頭には次の記述がある。
Monetary policy in the United States comprises the Federal Reserve’s actions and communications to promote maximum employment, stable prices, and moderate long-term interest rates–the three economic goals the Congress has instructed the Federal Reserve to pursue.
(拙訳)米国の金融政策は、米国議会が米連邦準備理事会(FRB)に追求するよう指示した三つの経済目標である「雇用の最大化(maximum employment)」と「物価の安定(stable prices)」、「長期金利の安定(moderate long-term interest rates)」を促進するための行動とコミュニケーション(市場との対話)で構成されている。
原文の出所:米連邦準備理事会(FRB)ホームページ:Monetary Policyhttps://www.federalreserve.gov/monetarypolicy.htm#:~:text=Monetary%20policy%20in%20the%20United,the%20Federal%20Reserve%20to%20pursue.)
FRBの「2つの責務(dual mandate)」という言い方をされるが、これは「雇用の最大化(maximum employment)」と「物価の安定(stable prices)」、「長期金利の安定(moderate long-term interest rates)」のうち、長期金利の安定は物価の安定の下で実現されることから、一般に「雇用の最大化(maximum employment)」と「物価の安定(stable prices)」がとして言及されることが多い。
3.日本銀行のMandate(責務)とは何か?
日本銀行のホームページには次の記述がある。
日本銀行の目的は、「物価の安定」を図ることと、「金融システムの安定」に貢献することです。
物価の安定
日本銀行の金融政策の目的は、物価の安定を図ることにあります。物価の安定は、経済が安定的かつ持続的成長を遂げていくうえで不可欠な基盤であり、日本銀行はこれを通じて国民経済の健全な発展に貢献するという役割を担っています(日本銀行法第1条第1項、第2条)。
金融システムの安定
決済システムの円滑かつ安定的な運行の確保を通じて、金融システムの安定(信用秩序の維持)に貢献することも、日本銀行の重要な目的です(日本銀行法第1条第2項)。日本銀行は、金融機関に対する決済サービスの提供や「最後の貸し手」機能の適切な発揮等を通じて、この目的の達成に努めています。
(出所:日本銀行ホームページ:「日本銀行の目的は何ですか?」https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/outline/a01.htm/#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%8A%80%E8%A1%8C%E3%81%AE%E9%87%91%E8%9E%8D%E6%94%BF%E7%AD%96,%E9%A0%85%E3%80%81%E7%AC%AC2%E6%9D%A1%EF%BC%89%E3%80%82)
(余談2)2012年7月26日とはどういう日だったのか?
はい、ロンドンオリンピックの開会式の前日でした(ロンドンオリンピックは、7月27日から8月12日までの17日間開催された)。「ユーロ危機はオリンピックの開催と共に去った」が真相だったりして・・・。
[注1] 本講の参照先には有料コンテンツが含まれております。
[注2] この背景説明の執筆にあたっては、唐鎌大輔著『ECB 欧州中央銀行: 組織、戦略から銀行監督まで』東洋経済新報社(2017年)を参考にさせていただきました。感謝。
鈴木立哉(すずきたつや)
金融翻訳者。あだ名は「チャーリー」。一橋大学社会学部卒。米コロンビア大学ビジネススクール修了(MBA:専攻は会計とファイナンス)。野村證券勤務などを経て、2002年、42歳の時に翻訳者として独立。現在は主にマクロ経済や金融分野のレポート、契約書などの英日翻訳を手がける。訳書に『ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)、『Q思考――シンプルな問いで本質をつかむ思考法』(ダイヤモンド社)、『世界でいちばん大切にしたい会社 コンシャス・カンパニー』(翔泳社)、『ブレイクアウト・ネーションズ』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)など。著書に『金融英語の基礎と応用 すぐに役立つ表現・文例1300』(講談社)。