【第2回】通訳翻訳研究の世界~翻訳研究編~翻訳研究とは?スコポス理論とは何か?
はじめに
当連載の「翻訳研究編」を担当する関西大学の山田優です。現在、大学で翻訳の理論と実践を教えながら研究に取り組んでいます。大学に来る前は、実務翻訳者として仕事をしていました。社内翻訳者時代を含めると、15年以上翻訳実務に携わってきました。
研究や理論というと、実務や実践とは関係ないと思われるかもしれませんが、私は実務翻訳者としての経験から疑問に感じたことを研究のテーマにすることが多いので、皆さんにも身近に感じてもらえるかもしれません。ということで、今回は、私の研究内容を少し話して「翻訳研究」とは何か理解してもらい、後半では実践と結びつきの強い「スコポス理論」という考え方について解説します。
何を研究しているのか?
自身の研究テーマはテクノロジー、プロセス、教育の3つ
研究では、まず「リサーチクエスチョン」を設定します。「翻訳品質とは何なのか」「翻訳の難しさとは何か」というように、研究のテーマ(仮設)を設定します。論文にするためには、学術的な検証法を用いなければなりませんが、テーマは自分の好きなものを選べます。テーマ決定には、実務の経験がヒントを与えてくれます。私の研究の関心は、大きく分けて3つです。(1)翻訳テクノロジー研究、(2)翻訳プロセス研究、(3)翻訳教育研究です。
翻訳テクノロジー研究
私の博士論文のテーマは、「翻訳メモリアルとポストエディットは翻訳者作業を効率的にしてくれるのか」というものでした。きっかけは、ローカリゼーションの仕事をやっていたときに、クライアントが翻訳単価の値下げ交渉をしてきたからです。翻訳メモリを使ったり、ポストエディットを行えば作業の効率性が上がるだろうという理屈です。元々ワード単価15円だったのが、Tradosの90%ファジーマッチではその7掛けの10円しか払ってもらえません。この金額は妥当なのか、まじめにこれを検証したいと思ったのです。欧州では大学と翻訳者が協力してこういったテーマを共同調査していることを知り、私も大学院の博士課程に進学しました。実務翻訳者らに協力してもらい、さまざまな角度から効率性や作業の変化を調査しました。
結果は、当時の翻訳メモリのファジーマッチに対する単価設定は、効率性(時間効率、体感効率、作業操作効率)という観点からは妥当でした。実は、結果次第では、クライアントに対し値上げ交渉をしようと考えていましたが、そのような結果にはなりませんでした。それでも、客観的に事実が解明できたことの達成感はありました。
翻訳プロセス研究
上の調査を進めていくうちに、今度は、翻訳者はどうやって複数の言語を扱い、上手に翻訳をしているのかを知りたくなってきました。テクノロジー研究と関連で話すと、「効率性」のように翻訳時間が減少したりスピードが向上するからといって、翻訳者の心的負荷が軽減されることとは直接関係ないことがわかってきたからです。そこで、翻訳者の認知的な操作をより深く調べる必要に迫られました。このような研究を行うのが、翻訳プロセス研究です。
しかし、翻訳プロセスを解明する、といっても一筋縄にはいかないことは自明でしょう。訳す作業は複雑極まりないから、研究できることは、非常に限られています。
とりあえず今の私の関心は、「翻訳能力というものが、外国語能力のような言語的知識だけではないならば、それを脳の活動の違いから分類できないだろうか」という試みです。実際に脳の活動を観察します。言語の統語処理が脳内のどの部位で行われているのかは判明しているので、それ以外の脳内部位の活動に興味があります。うまくいけば、語学能力以外にどんな能力が翻訳に必要なのかを具体的に示すことができるかもしれませんし、次世代ニューラル機械翻訳の構築に貢献できるかもしれません。
翻訳教育研究
さて、翻訳プロセス研究からも明らかなように、翻訳作業には、言語以外の活動が包含されます(言語以外の作業が8割以上とも言われています)。また「文」を訳すのではなく「文書」を訳すことでもあります。となると、文書を取り巻く文脈、時代、文化なども考慮しなければなりません。さらに、プロ翻訳者ならば、自らの作業や成果物について説明する能力も大事だと考えます。なんとなく訳したのでは、実務者としては失格です。
つまり、翻訳教育とは、上手に翻訳できるようになるのを目指しながら、自らの翻訳行為を意識し説明できる能力を育てることなのです。そして、究極的には、翻訳教育を研究するということは、包括的な意味での翻訳行為を説明すること、すなわち翻訳プロセスの記述であるとも換言できるかもしれません。このような理由により、海外では翻訳の研究と教育の両方を行う大学院で、翻訳者の養成が行われているのかもしれません。いずれにしても、私の研究と教育の関心がリンクしているかがおわかりいただけたと思います。
スコポス理論とは
翻訳実務養成のための訳文志向・目標重視の理論
では最後に「スコポス理論」について解説します。数ある翻訳理論の中で、スコポス理論は、研究に資する理論というよりは、翻訳実務家養成のための理論です。1980年代頃にドイツ機能主義という学派から生まれた考え方で、「スコポス」とは「翻訳の目的」を意味します。基本的な考え方としては、翻訳をするときには、翻訳の目的を決めておくことが大切であるということ。確かに考えてみれば、同じ原文であっても、目的が変われば訳出の仕方が変わってくるでしょう。電子メールの翻訳でも、ビジネス取引のためなのか、訴訟の資料のために訳すのかで訳し方で違うだろうし、取扱説明書の翻訳でも、印刷して製品に同梱されるか、それとも数時間後の社内用の参考資料として使われるのかによっても異なります。
スコポス理論はドイツ機能主義者の考え方であると述べましたが、これは言語とコミュニケーションの「機能」を重視する理論であるということと関係があります。言語の機能とは、意味でなく、その意味が果たす役割です。たとえば、「How are you today?」は、普段は「挨拶」という機能であると理解されますが、文脈が異なって、病院で看護師が患者に質問した発話であれば「体調の確認」の機能を果たすかもしれません。この違いは、コミュニケーションの「スコポス(目的)」に応じて変わってくるというわけです。前者の挨拶ならば「こんにちは」と訳してもよいかもしれませんが、後者の体調の確認ならば「ご気分はどうですか?」と訳すかもしれません。スコポス理論は、訳文志向(目標重視)の理論ですので、機能的に原文と訳文にズレがあったとしても、翻訳の目的に適合しているのであれば正当であると考えられる。これにより、自らの翻訳行為に対して意識的に考えられるようになり、また自分の翻訳について説明(*注)できるようになるという点において、重要な概念なのです。
*注:翻訳自体を説明するための言葉を「メタ言語」と言います。翻訳理論は、メタ言語を得ることでもあります。
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山田優(やまだ・まさる)
関西大学外国語学部/外国語教育学研究科教授
立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科博士後期課程修了、博士(異文化コミュニケーション学/翻訳通訳学)。社内通訳者・実務翻訳者を経て、最近は翻訳通訳研究に没頭し、2015年より現職。研究の関心は、翻訳テクノロジー論、翻訳プロセス研究、翻訳通訳教育論など。日本通訳翻訳学会(JAITS)理事。
企画協力:日本会議通訳者協会
※『通訳翻訳ジャーナル 2018 WINTER』に初掲載。