【第8回】通訳翻訳研究の世界~翻訳研究編~翻訳者の「検索能力」を検証
今回は「翻訳者の検索操作」についてお話します。翻訳者は正確に、よりよく翻訳するために、原文を読込み深く理解する必要がありますが、そのためには、調査や調べ物をすることが必須になります。第6 回で「翻訳プロセス」のお話をしましたが、今回はプロ翻訳者の「ウェブ検索」についての実証研究結果を紹介します。
情報検索能力の必要性
翻訳のために調べ物をする力、すなわち「情報検索能力」は、プロ翻訳者に要求される職業的な能力のひとつです。翻訳能力というと言語的な側面への印象が強いですが、高品質な翻訳サービスに求められるリソースやプロセスを定めた国際基準ISO17100 では、「言語
力や翻訳力」以外に、「異文化に関する能力」「テクノロジーに関する能力」「専門領域に関する知識」に加え、「情報検索能力」を重要な能力として規定しています。
このように、適切で優れた翻訳をするために情報検索をすることは非常に重要で、プロの翻訳者にとってはあたり前のことです。しかしながら、彼らが「何を」「どのように」検索しているのかという実態はヴェールに隠されています。ましてや翻訳学校や翻訳教育の現場においても、系統立った教え方はされていません。
一概に言えない「情報検索能力」
そこで、今回は実際にプロ翻訳者と翻訳を勉強している大学生に翻訳をしてもらい、彼らの検索操作についての詳細を調査しました。この調査では、科学ニュース記事を原文に使用し、英日翻訳の場面を観察しました。また、翻訳中のすべての操作をパソコン上で行ってもらい、そのプロセスを記録しました。分析は、その間の検索操作に関する部分に着目して行いました。参加したプロ翻訳者の専門はノンフィクション、ウェブサイト、機械系、産業など、プロ経験年数もさまざまな方々でした。
翻訳者の検索の操作
*検索時間の違い
実験の結果は下記の表の通りです。まず、検索にかける時間は、予想通りプロ翻訳者のほうが長いという結果になりました。表に示した通り、プロと学生を比べると、翻訳に費やした時間全体の平均が、プロのほうが約9分長く、時間差のほとんどが検索時間の差(7 分47 秒)でした。一般的に、プロ翻訳者のほうが速く翻訳できるという印象がありますが、この結果から、全体として、プロは学生よりも検索にかける時間が多く、その分、翻訳にかける時間も長くなっているということがわかりました。
*検索サイトの違い
検索中の検索方法や、閲覧したサイトの種類、また各サイトの閲覧時間についても調査しました。それらを「サーチエンジン検索結果(Search engine)」「辞書ウェブサイト(Dictionary)」「辞書以外のウェブサイト(Non-Dictionary)」の3つに分類しました。学習者は、それぞれ同程度の時間を費やしていたのに対し、プロ翻訳者は「辞書以外のウェブサイト」に検索時間全体の約6割を割いていました。ここから、情報検索の際に、プロ翻訳者は「辞書以外のウェブサイト」にも重きを置いていることがわかりました。
*検索言語の違い
個々の検索の詳細を見ていきます。サーチエンジンの検索クエリに入力した言語使用に着目すると、学習者が原文の言語(英語)での入力を多く行っているのに対し、プロ翻訳者は原文の言語と同等の数の検索を、訳文の言語(日本語)で行なっていました。つまり、プロ翻訳者は、訳文側の言語である日本語での検索も行って、情報を得ようとしていることがわかりました。
*検索の深さ
プロ翻訳者は、1つの事柄を検索し、出てきた検索結果画面から2 〜3のウェブサイトへ移動(jump)します。一方、学習者はおおむね検索結果の一番上の項目の一つしか閲覧しません。このように、プロは学習者よりも深い検索を多くするということがわかりました。
情報検索で差が出る理由とは
では、プロ翻訳者はどういった意図や目的をもって検索を行っているのでしょうか。それに関してインタビューを行い、その結果から、プロ翻訳者は「より信頼性の高い情報」を意図的・意識的に探していることがわかりました。例えば、課題文書の中に「Jakob Vinther」という、恐竜学者の名前を翻訳する場面がありました。「ヤコブ」なのか「ジェイコブ」なのか、この学者の名前を日本語でどう表記するのか、それを決定するまでの検索過程の一例を見てみましょう。
学習者は「名前を探そうと思ったけど、うまく出てこなくて」と述べており、検索はしましたが、あまり深掘りできず、日本語での表記をうまく見つけることはできませんでした。一方のプロ翻訳者は、一度訳したあとに、再度その学者のプロファイルを調べて出身地を見つけ出し、その出身地に基づいたカタカナ表記を見つけるところまで掘り下げた検索を行い、訳語を決定していました。この翻訳者は「(参照していた日本語記事で学者の)名前の表記が揺れているのに気づいたんです。この学者の出身を調べるとデンマーク人だったので、それにあった表記を探しました」と述べており、プロ翻訳者はその人物自身のことを調べ、より信頼性の高い情報を得ようという意図と目的で検索していたことがわかります。
また、プロ翻訳者の多くに見られたのが、記事のトピック情報を検索すること、つまり、背景やコンテクスト理解のための検索です。最も長く検索を行ったプロは、この検索に全体の検索時間の約70% を費やしていました。あるプロ翻訳者は「調べないと訳せない。調べると、英語が何を言いたいのかがわかってきて、どういう情景を日本語にすればよいのか浮かんでくる」と述べていました。別の翻訳者も、「裏取りをしながら検索を行っている」と話していました。このように、プロ翻訳者は背景やコンテクストの理解を深め、信頼性の高い情報を得ようという意図のもと検索を行い、正確な訳出をしていることがわかります。
まとめ
以上、翻訳における検索操作についての実験結果を述べてきました。今回の結果から、プロ翻訳者は情報信頼性やコンテクスト理解を重要視していることがわかります。これは、単語や文ではなく「文章として」の翻訳を行っていることの現れだとも換言できます。現状、「文章としての翻訳」すなわち「現実に社会の中で他でもなくそれであるものと見なした上で、それに対して加えられる行為」(影浦, 2017)は、人間の、熟練した翻訳者にしかできない操作と捉えられます。これは、今の機械翻訳にはできないことです。今後、このような重要なスキルは、本当の意味での翻訳者教育にとっても大切で、そのスキルを継承していくために、その操作の実態解明も重要だと考えられます。
参考文献
ISO 17100 (2015). Translation services–Requirements for translation
services. Geneva: International Standardization Organization.
影浦峡(2019)改めて、翻訳とは何か:Google NMTが使える時代に. 言
語処理学会第23 回年次大会 発表論文集, 931-934.
Onishi, Nanami. (2019) In search of translation: An empirical
investigation into translation decision-making process. 関西大学修
士論文. 未刊行.
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山田 優(やまだ・まさる)
関西大学外国語学部/外国語教育学研究科教授
立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科博士後期課程修了、博士(異文化コミュニケーション学/翻訳通訳学)。社内通訳者・実務翻訳者を経て、最近は翻訳通訳研究に没頭し、2015年より現職。研究の関心は、翻訳テクノロジー論、翻訳プロセス研究、翻訳通訳教育論など。日本通訳翻訳学会(JAITS)理事。