保護中: 【第4回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」 第二章 敗戦、国共内戦の時代 「満州」崩壊の日々 1945年の夏が近づくと、「新京」も内地と同様、灯りが外に漏れないように電灯を黒い布で覆うなど灯火管制が敷かれ、空襲に備えて家々の庭には防空壕が掘られた。わが家でも、一家が入れるだけの小さな防空壕が庭先に造られた。 わたしは庭の小さな砂場にレンガで囲った防空壕を作った。遊びの中にも戦争が反映され、戦時色が濃くなってきたのである。...
【第3回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」 国民学校の頃 ほどなくわが家は新京の南湖に近い盛京大路の官舎に移り、1941年4月わたしは春光国民学校に入学する。明治以来慣れ親しんだ「小学校」という名称が戦時体制に対応して「国民学校」と呼ばれるようになった年である。 それでも入学式の日、わたしは新京のデパート三(み)中井(なかい)か宝山(ほうざん)で買い求めたピンク地に黒い格子模様のワンピース、靴は皮靴といったヨーロッパ風のハイカ...
【第2回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」 第一章 「五族協和」の日々 わたしは東京市豊島区雑司ヶ谷で生まれた。 多分父の勤め先、当時の本郷区駒込にあった理化学研究所に近いので雑司ヶ谷に居をかまえたのだろう。 1937年4月、中国東北部の長春、当時の満州新京駅に降り立った時わたしは二歳足らずだった。盧溝橋事変が起きる三か月前のことである。 家族を連れて汽船で大連に向かい、大連から特急あじあ号に乗って新京に向...
【第1回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」 まえがき ライラックは、中国語では“丁(ディン)香(シャン)花(ホア)”、あるいは“紫丁(ズーディン)香(シャン)”という。 わたしが中国語に初めて本格的に触れたのは、七十年ほど前のことだった。 それは1950年に創立された長春(中国吉林省)の東北師範大学付属中学の誕生とほぼ重なる。わたしがその三年八組に編入学したのが1951年。 母校は、いわばわたしが中国語を身に...
【JITF2022】JACI特別功労賞記念講演 神崎多實子「中国語を生涯の友として」 神崎多實子(かんざきたみこ) 東京都生まれ。幼年期に中国へ渡航、1953年帰国。都立大学附属高校(現桜修館)卒。北京人民画報社、銀行業務などを経て、フリーの通訳者に。通訳歴60年余り、元NHK・BS放送通訳、サイマル・アカデミー講師。編著書:『中国語通訳トレーニング講座 逐次通訳から同時通訳まで』、『中国語通訳実践講座』、神崎勇夫遺稿集『夢のあと』(いずれも東方書店) 中国語...
【JIF2019】橋本佳奈「勇気を出して、ママ業から通訳業への道のり」 橋本佳奈 中国語(北京語・台湾語)通訳者。台湾生まれ。13歳に来日。日本の高校・大学を卒業後、総合商社に就職。結婚後専業主婦として2児の子育てに専念していたが、ある日突然、通訳者となる決心をし、いきなり未知の世界だった法廷通訳や展示会通訳の世界に飛び込む。現在は、主にビジネスの会議通訳を受けるが、時々法廷や少年犯罪の案件も受ける。また、国際結婚が増える中、各種セレモニーや結婚式のバイリンガル...